私は、草野先生の言われる三原則をある程度、自分の法律論に使ってきたと考えています。もちろん、福利主義とか集計主義という考え方に納得しない人もいます。公正とか、正義とか、そういうものが大事だという人ももちろんいます。ただ、そういう人たちが、公正とか正義というのは本当のところ何であると考えているのか、それほどはっきりしないと思っております。公正や正義に関する人間の直観は、鋭く正しいこともありますが、バイアスがかかっていて、間違っていることもある10)社会の人々が持っている公正や正義についての直観(道徳的直観)の機能と問題点(形成過程から生じるバイアス)については、特に功利主義哲学者が昔から論じてきた。R.M.Hare, Moral Thinking : Its Levels, Method, and Point (Clarendon Press, 1981)[内井惣七=山内友三郎監訳『道徳的に考えること』(勁草書房、1994年)]、特にその2章参照。認知心理学や進化生物学の知見を採り入れたより近年の議論については、田中亘「法制度設計における価値判断の方法」松井秀征=田中亘=加藤貴仁=後藤元(編)『商法学の再構築―岩原紳作先生・山下友信先生・神田秀樹先生古稀記念』1頁~48頁(有斐閣、2023年)参照。。そういうバイアスの内容を理解し、それを可能な限り矯正した上で、公正とか正義の名の下に追求しようとしているものが本当は何なのかを突き詰めて考えると、かなり多くの場合は――全部の場合がそうだとは言えないかもしれませんが――、個人の利益を集計して大きくなることがよいという方向にいくのではないか。¶039
このように言うためには、従来、公正とか正義の名の下に語られてきた法理ないしルールは、人がそのルールを前提に行動したとすれば、集計主義的に社会の人々の福利を大きくするような内容になっているのだと説明する必要があります。私は、まさにその説明を法と経済学がやってきたと思っていて、法と経済学を勉強してきた主要な動機もその点にあります11)スティーブン・シャベル(田中亘=飯田高訳)『法と経済学』(日本経済新聞出版社、2010年)。。法の支配という伝統的な法概念と、帰結主義、福利主義、集計主義というような、経済学的ないし帰結主義的な道徳哲学の概念が、どこか非常に深いところでつながっているのではないかということを、最近とみに思うようになりました。ですので、先生のおっしゃっていることには、非常に共感しています。¶040
草野今のお話は、福利最大化原理と伝統的な法律学上の諸理念、特に、正義との関係をどう捉えるかという問題に発展していくと思うのですが、私の考えはほぼ田中先生と一緒です。ただし、伝統的な法律論の世界に生きる人々の間において福利最大化原理、ないしは功利主義に対する風当たりは強く、「それってリバタリアニズムとどこが違うのですか」と12)代表的なリバタリアニズムの哲学者とされるロバート・ノーズィック(Robert Nozick 1938-2002)は、個人の自由と財産権を重視し、国家の役割を最小限に限定すべきだと主張した。彼の主著である『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社、1994年)はリバタリアニズムの古典とされている。おっしゃる方も少なくありません。福利の最大化とリバタリアニズムはもちろん違いますが、極端に豊かな人と極端に貧しい人の二極化を生み出しやすいグローバルな資本主義社会のジレンマに対する有効な処方箋を提示できていないという点で両者は大同小異であると言えなくもありません(ただし、福利最大化原理の下においては、厚生経済学の第二基本定理13)注29の解説参照。を主たる根拠として、貧富の格差の問題はその解決を税法や社会保障法に委ねるべきであって、民法や商法のような一般民事法の解釈論はこの問題に拘泥すべきでないという考え方が有力であり、私も基本的にはそう考えています)14)所得分配の衡平(平等)は、税制や社会保障制度によって図るべきであり、民法や商法のような一般的な法制度は、効率性の増進、つまり分配できる所得をなるべく大きくすることを目的として設計すべきであるという主張は、とりわけ、Lewis Kaplow and Steven Shavell, "Why the Legal System Is Less Efficient Than the Income Tax in Redistributing Income," Journal of Legal Studies 23(2): 667-681 によってなされた。シャベル・前掲注11)28章も参照。ただし、この主張に対する福利主義の立場からの重要な留保として、Zachary Liscow, "Is Efficiency Biased?" The University of Chicago Law Review 85(7): 1649-1718 (2018) 参照。議論のポイントは、資産の限界効用が低減する場合には、効率性基準は、富者の利益を貧者の利益よりも傾向的に高く評価するという問題点(富者優位バイアス)を持っているということである。田中・前掲注1)23頁~34頁も参照。。ですから、正義イコール福利の最大化と断言してしまうことは、学問上の意見として言うのであればともかく、法の支配の理念によって規律されている司法の場でそれを言うのはなかなか難しい、というのが私の裁判官としての率直な感想です。¶041
ちなみに、これは今、思い出したことなので余談として聞いていただきたいのですが、今を去ること約50年前、私が大学1年生のとき、ちなみに私は大学時代遊んでばかりいてほとんど授業に出席していなかったのですが、たまたま法学入門の第1回の授業にだけは出席していたのでよく覚えておりまして、講師の団藤重光教授が、「授業用に書き下ろした法学入門の教科書がまだできていないので、今日の授業でその本の目次を全部言うから諸君はそれを書き取りなさい」と、今から考えると随分非効率的なことを学生に命じました。そこで、私たちは団藤先生の述べる目次を延々と書き取っていったわけですが(今考えると、これによって私は以後の授業に出る意欲を失ったように思います)、団藤先生が、ある章の題名として、「たとえ世界が滅びても正義は果たされなければならないのか」15)Fiat iustitia, et pereat mundus(「正義行われよ、たとえ世界が滅ぶとも」). これは、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世(在位1556–1564)のモットーだったとされるが(\https://en.wikipedia.org/wiki/Fiat_iustitia,_et_pereat_mundus\>)、一般には、カントが行った同趣旨の主張の方が有名であろう。カント(熊野純彦訳)『人倫の形而上学第一部法論の形而上学的原理』(岩波書店、2024年)295頁(「そもそも正義が滅びるなら、人間が地上に生きることにはもはやなんの価値もない」)。後掲注16も参照。と言った瞬間、学生たちが爆笑しました。すると、団藤先生は非常に怒りまして、「君たちは一体何を考えているのだ。これほど重要な問題はないではないか」と言われたのです。思うに、大多数の学生は(私もそうでしたが)、「世界が滅びたら正義なんか意味ないじゃないか」と考えていましたので、団藤先生のお言葉はてっきりある種の冗談(ないしは「反語的レトリック」)だと思って爆笑したのですが、団藤先生はそれこそが法哲学の大問題であると大真面目に考えておられたようです。¶042
当時の学生たちの考え方を今私が知っている倫理学の言葉を使って言えば、まさしく、福利の最大化以外に正義の源泉となる理念はないということになるのかもしれません。そして、この考え方は、50年前においても、現代においても、多くの知識人の共有知であるように思えます(福利の最大化と人権の関係については後でお話しいたしましょう)。しかしながら、まさに団藤先生がそうだったわけですけども、一部の思想家や一部の法律家の中には、そういうものとは違う思想、いわゆる義務論なるものに共感を抱く人々がいることも事実です。えーと、義務論って、正しくは何て言うのでしたかな?¶043
田中ディオントロジー(deontology)16)義務論(deontology)とは、帰結主義(前掲注7)に反対する立場であり、望ましい帰結をもたらすとしてもすべきでない行為がある、または逆に、望ましくない帰結をもたらすとしてもすべきである行為がある、とする立場である。Shelly Kagan, Normative Ethics (Westview Press, 1998), sec.3.1. 義務論の典型と見られるものは、応報的刑罰観である。カント・前掲注15)298頁~299頁参照(「もしだれかがひとを殺害したのであれば、その者は死ななくてはならない。……犯罪とその報復とのあいだでなりたつ相等性としては、殺人犯に対して裁判をつうじて執行される死刑以外には存在しない。……たとえ市民社会がすべての成員の合意によって解散する(たとえば、ある島に居住する人民がばらばらになって、全世界に分散することを決定する)場合であっても、最後に牢獄に残された殺人犯が、解散に先だってあらかじめ処刑されなければならないだろう」〔強調は原文による〕)。。¶044
草野ああ、そうでした。そのディオントロジーにコミットしている方も法律家の世界には結構おられまして、しかも、正直なことを言いますと、私自身も、刑事裁判の判決を書くときなどには、俄かディオントロジストに豹変してしまい、「たとえ何人の福利の改善にも寄与しなくとも、この被告人にはこれだけの刑罰を科すべきだ」と思うことが多々ありました。ああ、どうか、私を変節漢と責めないでください(笑)。私の本分はリーガルプラグマティスト17)リーガルプラグマティズム(legal pragmatism)は法と経済学の泰斗であると同時に米国連邦高裁の判事を長年務めた(後掲注37も参照)Richard Allen Posner(1939-)が唱えた法解釈の指針。その考え方を一言で言い表すのは困難であるが、法解釈を行うに当たっては、形而上学的な言説を極力排し、特定の思想や原理に過度にコミットすることなく、何のためにその法解釈を行おうとしているのか、常にその目的に思いを致し、その目的に適った、つまり、目的合理性を持った、解釈態度を保持することがリーガルプラグマティズムの目指すところである。Richard A. Posner, Law, Pragmatism, and Democracy (Harvard University Press, 2003), sec.2参照。であることなのですから(笑)。¶045
さて、そんな次第により、私は福利の最大化こそが法解釈を行う上での最重要理念であるとは思うものの、個別意見を書くに当たっては、できるだけ伝統的な法理に依拠して論を進めるようになり、福利の最大化を正面から論じるのは、そうしなければ、説得力のある論理を導き出すことがどうしてもできないと思える場合に限るようになっていった気がいたします。¶046
田中この点は、この企画が進む中で、座談会に参加されるいろいろな人が指摘する話だと思います。福利という言葉自体、法律学では必ずしもなじみがなくて、最高裁判事の意見の中でこの言葉を使われたこと自体、驚きを持って受け止めている人もいると思います。¶047
概念を理解してもらえないということは、私自身が、悩むところでもあります。私は、依頼されて、裁判所宛てに意見書を書くことがありますが、法と経済学の概念をもろに出すと、まずその概念そのものを裁判官に説明しなければならなくなって大変ですし、しかも、効率性18)効率性(正確には、潜在的パレート基準ないしカルドア=ヒックス原理による効率性)という基準は、簡単に言えば、社会の人々の利益・不利益を全て金銭評価して、ネットの利益の金額が大きくなる社会状態を望ましいものとする基準である。詳しくは、Richard A. Posner, Economic Analysis of Law (8th ed., Aspen Publishers, 2011), sec.1.2; 田中・前掲注2)23頁~24頁とそこで引用している諸文献参照。という言葉を使うと、第一感としてネガティブに捉える人がいる。経済学の知見を、どうやって伝統的な法概念に慣れている裁判官に納得してもらうかというところで苦労します。それで、もともとの法と経済学の分析では効率性を基準にされているものを、効率性という言葉を使わないで説明するといったことが必要になります。ただ、その一方で、福利主義とか集計主義についても知っていてほしいと思うものですから、そういう言葉が最高裁の判決に、とにかく個別意見ででも出たということが、たいへん意義があると私は思っています。¶048
ここには2つの課題があると思います。1つは、法と経済学において効率性や福利といった概念を用いて行われている分析を、伝統的な法律学の概念に換言して、今いる裁判官に理解してもらうこと。もう1つは、特により若い世代の人たちには、福利主義という考え方自体を基礎から知っておいてほしいというものがあります。両面作戦みたいなことを自分ではやっているつもりでして、おっしゃっていることは非常に共感しています。¶049
草野私もそのような両面作戦を進めてきたつもりでして、その過程の中で、福利という言葉を常用することを決めた次第です。法律論の中で福利という言葉を用いることがなぜ適切であると思ったかと言えば、その最大の理由は、この概念の正当性の根拠を憲法の中に見出すことができるように思えるからです。¶050
日本の憲法で最も重要な条文は何かと言えば、それは、個人一人一人の幸福を追求する権利が最大限尊重されなければならないとする13条ではないでしょうか。この条文の理念を私の言葉で敷衍すると、国民一人一人が善き人生を構想し、構想した善き人生の実現を目指して生きていく自由こそが最大限尊重されなければならないのであって、構想された善き人生の実現を促進することを福利、それを妨げることをマイナスの福利と捉えれば、福利の最大化こそが憲法上の最重要な理念であると言えるのではないでしょうか。ちなみに、福利という言葉は憲法の前文でも使われていますので、経済学者が好んで用いる「厚生」という言葉よりも法律家にとって親和性のある概念であると思います。¶051
他方、「『利益』という法律家にとってもっとなじみの深い言葉を使わずに、なぜ福利という言葉を敢えて使うのか」ということもよく聞かれるのですが、法律家は、利益という言葉を、国家的利益とか、社会的利益とか、必ずしも個人には還元し得ない価値を意味するものとしても使いますので、それと区別する点からも福利という言葉を使うほうがよいと考えた次第です。¶052
福利最大化原理を法令解釈の指導理念として積極的に活用していこうとする際に逢着する問題は何かと言えば、そこには、この原理に内在する問題と外在する問題の2つがあるように思えます。まず、内在的な問題は、先ほど触れた集計主義の弱点とも言える点ですが、個々人の福利を加法的に合算する手段を一義的に特定することは困難であるという問題です。議論の対象となる福利が、市場で調達可能な財や役務を通じて得られる利益であれば、その財ないし役務の市場価格を使って福利の価値を加法的に集計できますが、市場で調達できない財(例えば、「健康な体」)や役務(例えば、「愛情溢れる家庭生活」)の場合には、この方法を使うことが(少なくともストレートには)できません。一方、外在的な問題は、福利の価値評価を関係する人々の主観的な判断に委ねてよいのかという問題です。もっと具体的に言いますと、自分とは異なる価値観やライフスタイルの下で他人が享受している幸せを見て不愉快に思う気持ち(マイナスの福利)や、あるいは逆に、自分と異なる価値観やライフスタイルの下で人が社会的に何らかの失敗をした場合にその人がそれによって不幸になっていくことに快感を覚える気持ち(プラスの福利)が問題となります。このような感情は、社会科学の世界では「負の社会的選好」、道徳哲学の世界では「ルサンチマン(ressentiment)19)ルサンチマン(ressentiment)という言葉を道徳哲学の文脈で最初に使ったのはキェルケゴールであると言われているが、一般には、ニーチェが名著『道徳の系譜』の中で多用した言葉として知られている。」などと呼ばれていますが、いずれにしても、このような感情は福利計算にカウントすべきではない、あるいは、仮にカウントするにしても大幅なディスカウントを施すべきであるようにも思えますが。この疑念に対する明確な回答が作り出せていないことが福利最大化原理に外在する問題と言えるでしょう。以上に挙げた問題に対処するためには福利主義や集計主義の思想をより精緻なものにする必要があるのでしょうが、それが達成されていない現状においては、法の支配の原則に立ち返り、既存の諸法理(その最たるものは憲法の人権思想でしょう)の力を借りて、別の言い方をすれば、福利最大化原理を既存の諸法理の中に巧みに溶け込ませながら、論を進めていくしかない。それは困難な作業ではありますが、それこそが、プラグマティックな裁判官にとっての腕の見せ所とも言えるわけです。¶053
Ⅴ 福利の大きさを比較すること
田中ありがとうございます。福利最大化につきましては、この企画の最終回として予定されている「草野最高裁判事の法解釈論」で詳しく取り上げようと思いますし、またその前の各回でも、個別意見を検討する中で何度も話題になるかと思いますから、ここで導入的に取り上げたいと思います。¶054
草野先生の個別意見では、福利の大きさを比較するという判断基準を打ち出しているところが、伝統的な日本の裁判所の判決文に慣れた者からすると異彩を放っていて、最大の特徴だと思います。福利という言葉が明示的に書かれているものだけを挙げても、夫婦同氏制違憲訴訟(前掲最大決令和3・6・23)(⇨判例11)とか、タトゥー訴訟(前掲最二小決令和2・9・16
)(⇨判例5)とか、それから民法の事件だと、賃料債権の相殺と物上代位の問題(最二小判令和5・11・27民集77巻8号2188頁
)(⇨判例21)があります。また、SNS投稿による逮捕事実の公表(最二小判令和4・6・24民集76巻5号1170頁
)(⇨判例16)など、多くの個別意見で、福利の大きさの比較という判断基準に拠っていることが窺えます。¶055
この福利というものの意味については、先ほど先生のお話の中でもありましたけども、「国民各位が個人として享受する利益」を意味するのであると。「個人を離れた社会全体の利益や特定の共同体、または組織の利益は含まれない」。これは、夫婦同氏制違憲訴訟(⇨判例11)の反対意見の中で述べられています。あくまで個人の利益に着目することを明確にされるために、福利という言葉を使われていると理解しています。¶056
それで、まず、そもそもなぜ福利の大きさを判断基準にすべきなのか、これが多くの読者の聞きたいところでもあると思うので、まずその点についてお聞きします。それから、福利を大きくするというと、国民全体の享受する福利の合計を大きくすること、いわばパイを大きくするということだと思いますが、これに対しては、全体を大きくするだけではなくて公平な分配ということも大事なのではないかという意見もあると思います。先生の最高裁判事の就任会見でも、パイを大きくすることと、パイの公平な分配の両方が重要であると語っておられます20)草野耕一最高裁判事就任記者会見の概要(平成31年2月13日)。。個別具体的な事件については、今後の座談会で検討することが予定されていますが、差し当たり今の段階では、ご担当された事件の中で、パイの大きさよりはむしろパイの公平な分配ということのほうが重要だと考えられた事件があったのかどうかということをお聞きしたいと思います。¶057
草野パイの大きさよりも公平な分配のほうが重要だという理由で結論を変えた事案はなかったと思います。ただし、そのことにしかるべき配慮はしていることを読者に分かってもらえるような書きぶりをした案件はいくつかあります。例えば、あはき師法の事件(最二小判令和4・2・7民集76巻2号101頁)(⇨判例14)の場合、詳しくはこの事件を取り上げるときにお話ししますが、「もしかしたら総合施術業の利用を広げることによって得られる国民全体の福利の増加のほうが、それが視覚の不自由な人々に及ぼすマイナスの福利に比べて大きいかもしれないけれども、視覚の不自由な人々の職業を確保することは非常に重要であるから、そこに少なからぬ悪影響があるとすれば、パイの大きさだけで判断するのは好ましくない」という趣旨の意見を述べたつもりです。¶058
田中大変興味深いご指摘をありがとうございます。あはき師法については、個別の法領域について検討する回で是非議論できればと思います。¶059
草野もう1件、思い出しました。家裁調査官が、ある少年のプライバシーに当たる事実を本人が特定される余地のある文章によって発表してしまったという事件(最二小判令和2・10・9民集74巻7号1807頁)がありました(⇨判例6)。この事件で最高裁は、プライバシーと表現の自由の相克に対する伝統的な法理であるところの利益衡量という観点から、発表された論文の学問的価値が高いことを重視して原告の主張を退けたのですが、私はちょっと違った考えでありまして、国家権力を行使して少年から入手した情報を使ってその少年のプライバシーを侵害する行為は、それが少年法の目的のために使われる限りにおいてのみ正当化できるものであり、それ以外の目的のために使用した場合は、それによって得られる学問的な貢献がいかに大きくても正当化し得ないという趣旨の意見を述べました(ただし、他の理由から結果的には多数意見の結論に賛成しました)。今述べた論理を先生の問題意識に沿って考えますと、福利の大きさよりも公平な分配に軍配を上げた案件と言えるかもしれません。¶060
田中なるほど。先ほど、帰結主義、福利主義そして集計主義という立場のご説明の中で、アマルティア・センの名前が出ました。センによれば、この3つの概念は、最も広い概念からだんだんスペシフィックになるという関係にあります。つまり、帰結主義とは、規範的な評価は帰結の望ましさによって行うという立場で、これが一番広い。それで、帰結主義の中の1つの立場が福利主義であり、これは、帰結の望ましさは、個人の福利によって判断しようとするものです。最後に、福利主義の中で、諸個人の福利を何らかの方法で集計したものを望ましさの判断基準にするのが集計主義です。その中で、諸個人の福利の単純な総和が大きくなるのが望ましいという形で福利を集計するのが功利主義ということになります21)センによる功利主義の理解につき、前掲(注9)参照。。ただ、もちろん、福利主義は功利主義に尽きるわけではなくて、いろいろ異なる立場が福利主義にはあります。例えばロールズのマキシミン原理のような、福利の水準が最も低い人の福利の向上を優先させようという立場があります22)マキシミン原理を要素として含む、ロールズの「正義の二原理」は、John Rawls, A Theory of Justice (Original edition, Harvard University Press, 1971), sec.46, p.302 [改訂版の翻訳であるが、ジョン・ロールズ(川本隆文=福間聡=神島祐子訳)『正義論(改訂版)』(紀伊國屋書店、2010年)402頁~403頁も参照]。。あるいは、全ての個人に一定水準までの福利は保障しなければならないという、そういう制約条件付きで、その制約を満たした上で福利の集計量を大きくするというのも1つの考え方としてあります23)福利主義(welfarism)の中の様々な立場については、Adler, supra note 7, sec.3.1参照。。¶061
ただ、先ほどのお話は、今述べたような、福利主義を前提にして各人に最低限の大きさの福利を保障するという考え方よりは、むしろ、福利を実現するために必要な権利ないし人権というか、あるいは資源(resources)というか24)ドゥオーキン(Ronald Dworkin)は、福利の平等に対して資源の平等を強く主張したことで知られる。Ronald Dworkin, “Equality of Resources,” in Sovereign Virtue : The Theory and Practice of Equality (Harvard University Press, 2000) [小林公=大江洋=高橋秀治=高橋文彦訳『平等とは何か』(木鐸社、2002年)]参照。、そういったものを一定程度まで保障した上で、福利の集計量を大きくするという考え方かなと思ったのですけど、いかがでしょうか。¶062
Ⅵ 福利主義と人権の関係
草野私の考える優先順位も先生のおっしゃるものとほぼ同じです。まず、最も重要な法令解釈上の指導理念はリーガルプラグマティズムであって、そのための最善の方法が帰結主義であり、帰結主義に一番適切な方法が福利主義であり、福利主義を活かす方法は、原則として集計主義だけれども、そのヴァリエーションとして、ロールズのマキシミン原理的なものも当然あってよいと思います(増加率が非常に逓減的なフォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用関数25)期待効用仮説(人は利得の期待値の最大化ではなく効用の期待値の最大化を目的として行動するという仮説)を説明するために考案された、利得を独立変数、効用を従属変数とする関数のことである。を想定すれば、ロールズのマクシミン原理は集計主義のヴァリエーションとして捉え得るでしょう)。¶063
福利最大化原理と人権との関係については、是非お話ししておきたいことがあります。憲法学では人権保障こそが我が国憲法上の最重要な理念であるとされています。その点に異論はありませんが、ご承知のとおり、人権思想は、17世紀のイギリスの2つの革命と、それから18世紀の2つの大革命、つまりアメリカの独立戦争とフランスの大革命の中から生まれてきた思想であって、その時点では、まだ福利の最大化という思想は現れていませんでした。つまり、人権思想が生まれた当時の国家とは、国民の目から見れば、ある種のブラックボックスであって、為政者は様々な目的のために国家を動かしていくかもしれないが、いかなる場合においても国民の人権を侵すことがあってはならないという、ある種の抵抗権として人権思想は生まれてきたように思えます。¶064
しかしながら、近代国家という観念が確立された19世紀から20世紀に至り、国家の主たる存在理由は国民の生命と財産を守り、国民の幸福を増進させることであると考えられるようになりました。そして、このような国家観の確立と並行して功利主義思想が生まれるに至ったことは決して偶然ではないと思います。なぜならば、国家がもはやブラックボックスではなく、国民の生命と財産を守り、国民の幸福を増進させるという明確な目的のために営まれるべき存在であるとされた以上は、この目的の実現に向けられた指導理念が必要であり、かかる指導理念として功利主義思想が生まれたと考えられるからです。そして、国家の存在理由とその指導理念が定まった以上、人権思想の位置付けもおのずから変わらなければなりません。すなわち、たとえ国家がその存在目的を正しく果たすべく国民の福利の最大化を図っているとしても、なお、ある種の福利は、たとえそれが国民全体の福利の総和という観点から見ればどんなに小さなものであっても、侵すことが許されてはならない、それが人権である、という捉え方こそが近代国家における人権思想の正しい理解と言えるのではないでしょうか。だとすれば、我が国の憲法を解釈する上においても、福利最大化原理は、(歴史的にはそうでなくとも論理的には)人権思想に先行する指導理念として尊重されるべきであるように思えます。ところが、日本の憲法学者は、少なくともある種の憲法学者は、人権思想の重要性を強調しながらも、功利主義やその後衛思想であるところの福利最大化原理の価値を正当に評価せず、その結果として、福利最大化原理を言語化する上で不可欠な知見であるところのミクロ経済学の研究を怠ってきたのではないでしょうか。こんなことを言うと、今後のこの座談会にご参加になる憲法の先生方に叱られそうですが(笑)。なお、先ほどの先生の最後のご質問についてですが、私は、今申し上げました次第により、人権思想は福利の最大化を制約する原理と捉えております。人権をもって資源の保障と捉えるドゥオーキンの考え方は知りませんでしたので勉強してみたいと思います。¶065
田中日本国憲法ができた頃の法学者の論文を読んでいると、例えば我妻栄は、公共の福祉が実現すべき究極の目標であって、人権はそのための手段だという趣旨のことを書かれています26)我妻栄「民主主義の私法原理」同『民法研究Ⅰ・私法一般』(有斐閣、1966年[初出1949年])1頁〔3頁〕(「近世民主主義においては、『公共の福祉』が永遠の目的であって、『自由』と『平等』とは、その目的に達するための手段である」)。。もっともこれは、今日の憲法学では、あまり顧みられていないと思います。ただ、その一方で人権論の中には、表現の自由は、単に個人の利益に資するというだけではなくて、賢明な政治的判断が下されるようにするためには表現の自由が不可欠だという手段的な価値も援用して、だから表現の自由には優越的地位が認められるといった議論がありますでしょう。古くは、ミル(John Stuart Mill)がそのようなことを言っています27)J.S.ミル(斉藤悦則訳)『自由論』(光文社、2012年)2章。。¶066
私は、人権と福利主義はどういう関係に立っているのかという問題は、この座談会でも、将来的にテーマにしたいと思っています。福利主義一元論からすると、福利をより効果的に最大化するためには、国家機関による、全体の福利ではなくて一部の人たちの福利を増大させようとするような、いわばゆがんだ決定を防止する必要があるので、そのための重要な手段が人権なのだという発想になると思います。そういうふうに、福利主義一元論で人権を説明し尽くせるかというのは、かなり重要な論点だと思いますが。¶067
草野私は福利主義と人権を二元的に捉えているのですが、先生は両者を一元化できるかもしれないとお考えなのですね。¶068
田中そうです。できるかもしれないと思っています。ただ、そこは人によって考え方の違いはあるだろうと思います。この企画の最終回で、人権の保障を功利主義によって正当化する立場の小川亮先生28)小川亮『一元的司法審査論』(東京大学出版会、2025年)391頁(「権利はすべて公益を最大化するための手段としてのみ保障される」)。著者は、功利主義を基礎とする権利論を構想しており、ここでいう「公益」も、諸個人の「効用[福利]の総計」(小川・前掲279頁)を意味する。をお呼びする予定なので、そのとき議論したいと思っています。私としては、差し当たり、人権の中には福利主義と親和的なものも多いというか、少なくとも真っ向から対立しているわけではないということは大事だと考えています。¶069
Ⅶ 関係諸科学の活用
田中それでは、経済学、統計学といった、関係諸科学の活用というテーマに移りたいと思います。先生は、最高裁判事に就任される前から、経済学、統計学といった関係諸科学の積極的活用を提唱されてこられたと思います(『数理法務のすすめ』など)。最高裁判事として意見を書かれる中で、そうした関係諸科学の有用性を実感した事件がありましたらご教示ください。¶070
草野はい。まず、ミクロ経済学の有用性を実感した案件としましては、あはき師法の違憲訴訟(前掲最二小判令和4・2・7)(⇨判例14)、固定残業代制度に関する訴訟(最二小判令和5・3・10判時2571号95頁
)(⇨判例17)。それから、物上代位と相殺の優劣をめぐる訴訟(前掲最二小判令和5・11・27
)(⇨判例21)などが思い出されます。統計学の知見を利用した事件としては、議員定数不均衡訴訟の事件(最二小判令和2・10・23判時2481号9頁
、最大判令和5・10・18民集77巻7号1654頁
)(⇨判例7と⇨判例18)があり、被用者から使用者への逆求償が認められるか否かが争われた事件(最二小判令和2・2・28民集74巻2号106頁
)(⇨判例3)では、確率論からファイナンス理論に至る知見を総合的に活用し得たように思います。¶071
田中ありがとうございます。法解釈論にそれらの関係諸科学を用いることの限界、あるいは留意すべき点について、お考えがあればご教示ください。¶072