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田中それでは、座談会を始めさせていただきます。私は東京大学社会科学研究所教授の田中亘と申します。よろしくお願いいたします。¶001

草野草野耕一です。よろしくお願いします。¶002

田中草野耕一先生は、2019年2月13日に最高裁判所判事に就任され、2025年3月21日に退官されるまで、最高裁判所第二小法廷で事件を担当され、多数の個別意見を執筆してこられました。今回の企画では、草野先生が最高裁判事として執筆された個別意見25件の全てについて、関係分野の研究者を交えて検討し、それが実務上または理論上持つ意義を明らかにしたいと考えています。今回は、その第1回「総論」ということで、草野先生と私の対談形式で、企画の趣旨を説明するとともに、司法の役割や法解釈の方法といった基本的な論点について、草野先生のお考えをうかがいたいと思います。その後、数回にわたって、草野先生と私のほか、各法分野の研究者を加えた座談会形式で、個別意見について詳しく検討していきます。最終回では、基礎法学の研究者を招いて、草野耕一裁判官の法解釈方法論について検討する予定です。¶003

草野耕一判事個別意見付き判例一覧(年月日順)

  1. 1最二小判令和元・9・6民集73巻4号419頁(代位取得した損害賠償請求権の遅延損害金の起算日)
  2. 2最二小判令和元・9・13判時2434号16頁(諫早湾潮受堤防排水門の開門に係る請求異議)
  3. 3最二小判令和2・2・28民集74巻2号106頁(被用者からの逆求償)
  4. 4最二小判令和2・3・6民集74巻3号149頁(中間省略登記と司法書士の注意義務違反)
  5. 5最二小決令和2・9・16刑集74巻6号581頁(タトゥー医師法違反事件)
  6. 6最二小判令和2・10・9民集74巻7号1807頁(家裁調査官論文執筆とプライバシー侵害)
  7. 7最二小判令和2・10・23判時2481号9頁(参議院選挙比例代表特定枠制度の合憲性)
  8. 8最大判令和2・11・18民集74巻8号2111頁(令和元年参議院選挙議員定数配分違憲訴訟)
  9. 9最二小判令和2・11・27判時2487号28頁(公認会計士協会決定の開示差止)
  10. 10最二小決令和3・4・14民集75巻4号1001頁(弁護士職務基本規程と訴訟行為)
  11. 11最大決令和3・6・23判時2501号3頁(夫婦同氏制違憲訴訟)
  12. 12最二小判令和3・7・19判時2514号13頁(会計限定監査役の任務懈怠)
  13. 13最二小決令和3・12・22裁判所Web〔令和3年(許)第4号〕(再生計画決議不認可事件)
  14. 14最二小判令和4・2・7民集76巻2号101頁(あはき師法違憲訴訟)
  15. 15最二小判令和4・6・17民集76巻5号955頁(東電福島第一原発事故国家賠償訴訟)
  16. 16最二小判令和4・6・24民集76巻5号1170頁(SNS逮捕事実投稿削除請求訴訟)
  17. 17最二小判令和5・3・10判時2571号95頁(固定残業代制度事件)
  18. 18最大判令和5・10・18民集77巻7号1654頁(令和4年参議院選挙議員定数配分違憲訴訟)
  19. 19最大決令和5・10・25民集77巻7号1792頁(性同一性障害者特例法違憲訴訟)
  20. 20最二小判令和5・11・6民集77巻8号1933頁(タックス・ヘイブン対策税制)
  21. 21最二小判令和5・11・27民集77巻8号2188頁(物上代位による賃料債権差押えと相殺の優劣)
  22. 22最大判令和6・7・3民集78巻3号382頁(旧優生保護法違憲訴訟)
  23. 23最二小決令和6・10・16裁判所Web・裁時1850号1頁(刑事取調映像提出命令)
  24. 24最二小判令和7・2・17裁判所Web・裁時1858号1頁(非木造家屋への固定資産課税)
  25. 25最二小決令和7・3・5裁判所Web〔令和3年(あ)第246号〕(東電福島第一原発事故業務上過失致死傷事件)

Ⅰ タイトルに込めた意味――倫理と経済が交わる場としての司法

田中今回の座談会のタイトルは、『倫理と経済が交わる場としての司法』ということですが、これは草野先生のご提案で付けられたものです。このタイトルに込められた意味を教えてください。¶004

草野はい。司法が用いる論理は、一般に法律論と呼ばれます。では、法律論とは何かと言うと、結局のところ、それは、人類がローマ法以来2000年かけて築き上げてきた法律家の間の共有知に基づいてなされる立論のことであり、法律学の主たる役割は、かかる共有知を発見し、体系化し、発展させることであると思います。なぜローマ法とだけ言ってメソポタミアのハンムラビ法典や古代中国の法家思想から説き起こさないかということについては、いずれ機会があればお話ししたいと思いますが、いずれにせよ、法律家間の共有知が司法という営みを支える知の基盤となっていることは、何人にも異論のないことだと思います。¶005

しかしながら、法律家の共有知の学問である法律学は、他の学問と無関係に生成し発展するものではありません。各時代の法律家がどれだけ自覚的に行動してきたかは別論としましても、法律学が時代から取り残されることなく発展し続けるためには、もっと刺激的な言い方をすれば、法律学がガラパゴス化しないためには、各時代において目覚ましい発展を遂げてきた隣接諸学問の知見を既存の法律論の中に取り入れ続けていくことが必要でしょう。そして、現代社会の法律学にとって焦眉の課題は、経済学(特にミクロ経済学と統計学)と、分析哲学の洗礼を経て発展してきた現代倫理学の知見を、法律学という伝統的な器の中に、いかに巧みに盛り付けるかにあるというのが私の考えでして、この思いを込めて、今回のタイトルを選んだ次第です。ちなみに、このタイトルの英語表記を示す機会があるとすれば、“Judiciary as the crossroad of ethics and economy”としていただきたいと思います。¶006

田中ありがとうございます。私は、以前から草野先生のご著書で勉強させていただいており、『数理法務のすすめ』(有斐閣、2016年)については、書評もさせていただきました1)田中亘「なぜ法律家は数理的分析を学ぶべきなのか」書斎の窓650号(2017年)同『企業法学の方法』(東京大学出版会、2024年)所収。。その際は、法律学の発展にとって隣接諸科学の知見を活かしていくことがいかに大事かということについても書きました。¶007

それに加えて、実は最近、私も、とみに倫理学も知らなければならないと思うようになりました。隣接諸科学は、事象の解明に役立つという意味で法律学にとって重要ですが、法律学は、何が望ましいかという価値の問題も考える必要があります。私は、もともと帰結主義的な道徳哲学に関心を持っていましたが、ここ5年くらい少しインテンシブに勉強して、昨年は本を出したりしております2)田中・前掲注1)『企業法学の方法』、特にその[序論]「企業法学の方法」(1頁~37頁)参照。。ですので、先生のおっしゃっていることには共感するところが大きいです。¶008

Ⅱ 具体的な事件に即して論じる意味

田中今回は企画の初回ですので、草野先生と私との対談形式で総論的な話をしますし、それから最終回にも、「草野最高裁判事の法解釈論」と題して、総論的な話をしたいと思います。ただ、それ以外の回は、全て、草野先生が個別意見を書かれた具体的な事件について、専門分野の研究者を交えた座談会形式で議論する形を取ります。このように、個別具体的な事件に即して議論するという方式も、先生のご発案によるものですが、その意義について教示いただければと思います。¶009

草野最大の理由は、解釈論の重要性は、個別の案件を通じてでなければ語ることができないと考えるからです。このことを端的に示す例として、ここで、大阪高裁の令和3年12月9日判決の事件(大阪高判令和3・12・9民集77巻3号814頁参照)を取り上げてみたいと思います。¶010

この事件では、口頭弁論に関与していない裁判官が判決を言い渡した場合に(この場合、敗訴当事者には民訴法338条1項の規定によって再審の申立てが認められます)全部勝訴した原告に控訴の利益があるか否かが争われました。大阪高裁は控訴する利益の存在を否定しましたが、最高裁はこの判決を破棄して原告には控訴する利益がある旨の判決を言い渡しました。¶011

さて、ここでご注目いただきたいたいのは、控訴の利益を否定した大阪高裁のロジックです。なぜ大阪高裁は原告に控訴の利益はないと言ったのか、その論旨を要約してみると、第1に、この事件では、被告が不出頭なまま一審が終結していますので、再審の申立てがなされる可能性自体がそもそも低く、第2に、仮に再審がなされたとしても、原告の主張に理由があるのであれば、原告は再審においても敗訴することはないのだから、原告に不利益が生じることはなく、第3に、仮に万が一、再審で原告が敗訴するとすれば、それはもともと原告の訴えに根拠がなかったからなのであるから、やはり原告には控訴して一審判決の破棄を求める利益があるとは言えないというのです。このロジックを読者の皆さまは、どうお感じになるでしょうか。¶012

抽象論として言えば、この論理は水も漏らさぬ完璧なもののように聞こえるかもしれません。しかしながら、この判決のロジックは、私に言わせれば完璧に間違っています。なぜならば、この事件は不動産の所有権の帰属をめぐる事件だったのですが、不動産の所有権に再審事由という瑕疵が付着している限り、その不動産をまともな価格で売却することは到底できないからです。これを要するに、この事件の原告は、一審裁判所が口頭弁論に関与しない裁判官に判決の言い渡しをさせるという誤りを犯したがために、せっかく裁判に勝訴したにもかかわらず、それによって取得した不動産に関して市場価格の暴落という重大な不利益を被っており、この点の瑕疵を除去してもらうために控訴する利益が原告にあることは明白であるように思えます。¶013

ところで、以上の説明を法律家以外の知識人がお聞きになったら、恐らくのところ、次のような感想を抱くのではないでしょうか。すなわち、「高裁の論理は、『パンがないならケーキを食べればいいじゃないの』と言ったとされるマリー・アントワネットの都市伝説をほうふつさせるほど非常識なものだ。高裁の裁判官ともあろうお方が、なぜそんなことを言ったのだろう」と。しかしながら、私に言わせれば、このような誤りは、なまじ法律の玄人であるがゆえに犯してしまったものであり、そこに伝統的な法律論に内在する恐るべき落とし穴、陥穽があるように思えます。その陥穽の実態については、後で詳しくお話ししたいと思いますが、ここまでの説明によって、解釈論の良否は、抽象的な議論によってではなく、個別案件を通じてでなければ説得的に語れないということについて、読者の皆さまもおおむね納得していただけたのではないでしょうか。¶014

なお、この座談会で取り上げる解釈論を私が最高裁判事として記した個別意見の内容に限定いたしました理由は、それが、具体的な案件において示された解釈論を、私が責任を持って、しかも、裁判官同士の評議の機微に触れることなく語り得る最適な素材であると考えたからです。¶015

田中この判決は、座談会の前に草野先生にご紹介いただきました。これを読んで思ったことは、民事訴訟法の問題に限らず、法律論では、よく法律上の利益という言葉を使います。法律上の利益は事実上の利益とは違う、事実上の利益があっても法律上の利益がなければ、訴えとか再審申立てとかはできないというように使うわけです。これは、裁判制度という、国がコストをかけて運営している制度の利用を認めるかというスクリーニング機能を持っているので、ありとあらゆる利益が法律上の利益ではないという考え方自体は間違っていないと思います。ただ、そういう言葉遣いが独り歩きしてしまって、この利益はいかに重要ではあっても事実上の利益だから、訴えの利益があるとは言えないとか、あるいは再審の利益を構成しないという形で、この概念の区別が独り歩きしていくという問題点があるのではないかと思いました。ご紹介くださった事件については、たとえ原告が勝訴判決を得ていたとしても、それに再審事由がついている限り、将来その判決が覆ってしまうおそれがあるわけですから、外部の者から見たときに、原告の権利が明確に確定されているとは言えません。それで、例えば原告がその不動産を売ろうとした場合に、そういう不確実性を反映して、不動産の評価額が下がってしまうことがあり得ます。こういった点を裁判所としても適切に考慮できるように、法律上の利益という概念を構成する必要があると思います。¶016

この判決は、法律概念が独り歩きしてしまうことの怖さを示していると思います。そういう独り歩きの怖さは、確かにご指摘のように、具体的な事案がないと示すことは難しい。抽象論だけで批判し合っても仕方ないところがあります。今回の企画で、具体的な事件の検討を通じて、法律学の重要問題を明らかにしていければと考えております。¶017

草野確かに法律上の利益とそれ以外の利益を峻別することは、司法の経済性という観点から有意義と言えなくもありません。しかし、本件の高裁判決がそのような垢抜けした価値判断の下に控訴の利益という概念を限定的に解釈したとは思えません(この事件で原告の控訴を認めないことに経済的合理性があるとは到底考えられません)。では、なぜ大阪高裁はあのようにトライアンファント(triumphant)な語調の下に控訴を棄却してしまったのか。その理由は、先ほど話しかけた法律論に内在する陥穽の問題に帰着するように思えます。¶018

大上段に構えて話を始めるのは私の悪い癖ですが、ここではその点をお許しいただくとして、少しアカデミックな話から始めたいと思います。昔の古代人の洞窟壁画、例えばアルタミラやラスコーの壁画に描かれているものは、一緒に暮らしている人々、特に愛情や崇拝の対象である異性、それから、飼っている家畜や格闘した動物などであって、本来、人間が最も美の対象と感じるはずであるところの自然というものはほとんど描かれていません。なぜ自然が描かれていないのかということについて、以前に文化人類学者の方に意見を聞いたことがあるのですが、その方が言うには、古代人にとって自然は恐怖や憎しみの対象とはなり得ても、芸術的鑑賞の対象物とはなり得なかったのではないかというのです。それはなぜかと言えば、例えば、春の曙とか、秋の夕暮れとか、様々な自然現象に対して、それを表す言葉ないし概念がなければ、それを理解し、それを分析しようという意欲、いわんや、それを芸術的鑑賞の対象としようというモティベーションは湧いてこない。さらに言えば、例えば森に風がどんなに吹いても、森とか、林とか、木とか、そういう自然を構成している個別の素材に対する名称がなければ、風景全体がおぞましいものとして漠然と目に入るだけであって、それを知的に理解することはできない。要するに、概念があって初めて現象が理解できるというのです。¶019

ちなみに、ジャン・ポール・サルトル3) Jean-Paul Charles Aymard Sartre(1905-1980). フランスの哲学者、小説家、劇作家。「(人間の)実存は本質に先行する」という彼の言葉は、実存主義哲学の箴言として有名である。に『嘔吐』という小説があるのですが、この作品では主人公のロカンタンが、奇妙な色彩のネクタイや大きな木の根っこを見て吐き気を催すというところから話が始まります。当初、ロカンタンは、なぜ吐き気を催すのか自分でも分からないのですが、次第にその理由が明らかになっていきます。要するに、あらゆる事物に対して、人がその「存在(l’existence)」を知的に理解するためにはその事物の「本質(l’essence)」を知らねばならない。そこで、本質が何であるかが分からないままにある事物の存在が人の知覚の中に飛び込んできた場合、人はその事物に対してある種のおぞましさを覚えて嘔吐を催すというわけです(なお、上記の文脈に限って言えば、サルトルの言うところの「本質」は、これを現代フランス哲学で言うところの「構造(la structure)」と言い直したほうが分かりやすいかもしれません)。¶020

さて、今お話ししました2つのアネクドート(逸話)を法律論の世界に当てはめると何が言えるでしょうか。恐らくのところ、それは、任意の事象を法律論として語るためには、その事象を法律論、つまり法律家の共有知を基盤とする論法の中に取り込むための専門用語が必要だということではないでしょうか。そして、そのような専門用語が存在しない場合、法の専門家を自認する裁判官は、その事象から目をそらしてしまう、つまり、そのような事象はあたかも存在しないかのごとくに論を進めてしまう傾向を免れない。これが伝統的法律論に潜む陥穽だと思うのです。¶021

例えば、アメリカでは統一商事法典(Uniform Commercial Code)の中に「マーチャンタビリティ(merchantability:商品適格性)」という用語があって4)アメリカ統一商事法典2-314参照。、商品が市場で取引されるために通常備えているべき品質や性能を指す言葉として使われています。そこで、日本の民法にもそのような概念があったならば、先ほどの大阪高裁の裁判官も、原告は再審事由の付着した判決を受けたことにより対象不動産に関してマーチャンタビリティの喪失という不利益を受けたと認識できたかもしれません。¶022

つまり概念がないから事実が(この事案においては「不利益」が)認識できない。これが伝統的な法律論の弱点であって、この弱点を補うための処方箋が、法の隣接諸学問、特に経済学のジャーゴン(jargon:専門用語)を「法律外来語」として法律論の中に組み入れていくことだと思うのです。先ほどの事案で言えば、「市場価格」という概念、これはわざわざ専門用語と言うまでもないほどに人口に膾炙された言葉ですけれども、十分に精緻な概念であり(この点が法律外来語を法律論に取り込むための必要条件でしょう)、この概念を使えば、マーチャンタビリティという言葉のない我が国の民法の下でも原告が受けている不利益を法律論の中に正しく位置付けることができる。¶023

ここに、法の隣接諸学問、特に経済学を法律家が学ぶことの有用性の1つの根拠があると思う次第です。なお、法律家が経済学を学ぶことが有益である理由は上記の点以外にも多々ありますが、それらの点についてはこの後追々に話していきたいと思います。¶024

田中それは面白いですね。マーチャンタビリティと聞いて思い付いたのは、刑法の判例で、食べ物を入れる容器に尿をかけたら、器物損壊になるという判例がありますよね5)大判明治42・4・16刑録15輯452頁。それは、洗えば衛生上は何も問題ないはずですが、それでもやはり、尿をかけられたと聞いたら、みんなその器は使えないでしょう。それはマーチャンタビリティそのものですね。そういうふうに、各法分野にばらばらに存在しているように見える法理には、実は普遍的な、人類の知恵のようなものが込められています。そういう各法理が持っている機能について適切に理解すれば、それを別の場面、例えば民事訴訟法における申立ての利益の解釈にも活かすことができると思います。¶025

草野刑法学、特に刑法各論上の諸概念は具体的な事実を外延とするものが多いので、隣接諸学問上の概念を借用しなくても、伝統的な法律上の概念の内包6)集合論的に言うと、概念の外延とは、当該概念を構成する要素の集合のことであり、内包とはそれらの要素に共通する(しかも、それらの要素のみに共通する)性質のことである。例えば、偶数という概念の外延は、2、4、6、8、……と続く整数の集合であり、内包は、「2の倍数であること」である。をわずかに修正することによって適切な解釈論を展開できる場合が多いのです。刑法各論上の概念は事実に対して開かれていると言ってもよいかもしれません。ですから、現代社会に生起する様々な事象に対しても、法律上の概念、例えば、器物損壊という概念の内包を若干修正することによって現実に即した解釈論を展開する余地がある。これに対して、民法学上の概念には外延が多層構造になっている抽象的なものが多くあります(「控訴の利益」という概念はその典型です)。その場合には、経済学その他の諸学問上の概念を補ってあげないと適切な解釈論を展開することが難しい場合が多いように思えます。¶026

田中民法学でも、特に最近は、法律概念は事実に対して開かれていなければいけないと考える人もいるので、この後の回にお呼びして、話をしたいと思います。¶027

Ⅲ 法解釈の基本理念

田中次に、判決を書くときに取っておられた基本的な理念についてお聞きしたいと思います。先生が最高裁判事を退官された直後に公表された読売新聞オンラインのインタビュー記事の中で、より良い社会をつくることを目指して解釈する帰結主義、国民一人一人が良き人生を実現できるかどうか、それを増やせているかどうかという基準をもとに判断する福利主義7)帰結主義(consequentialism)とは、社会的選択(司法の下す裁判もその1つ)の望ましさは、その選択のもたらす帰結の望ましさによって判定する立場を言い、福利主義(welfarism)とは、帰結主義の中でも、帰結の望ましさの判定をもっぱら個人の福利(well-being)によって行う立場を言う。これらの概念について、Matthew D. Adler, Measuring Social Welfare : An Introduction (Oxford University Press, 2019), sec.1.2.2参照。なお、welfarismは、厚生主義、または(福利は効用〔utility〕とも呼ばれることから)効用主義と訳されることもあるが(例えば、アマルティア・セン〔大庭健=川本隆史訳〕『合理的な愚か者』〔勁草書房、1989年〕169頁)、本企画では、一貫して福利主義と呼ぶことにする。、そして法の支配の貫徹、以上の3点を理念として判決文を書き続けたと述べておられます8)前最高裁判事が語る『司法立国のすすめ』草野耕一弁護士インタビュー」読売新聞オンライン2025年5月7日付。¶028

草野先生の法解釈の方法論として、より良い社会をつくる法解釈が望ましいという帰結主義を取っていることや、その帰結の望ましさは、個人の福利が増大しているかを基準に判断するという福利主義を取っていることは、最高裁判事への任官前に出された著作、例えば『会社法の正義』(商事法務、2011年)などからうかがえます。また、最高裁判事に任官されてからは、例えば夫婦同氏制違憲訴訟(最大決令和3・6・23判時2501号3頁)(⇨判例11)の反対意見や、タトゥー訴訟(最二小決令和2・9・16刑集74巻6号581頁)(⇨判例5)の補足意見など、福利主義を前面に出した個別意見を多数書かれてきました。そのため、草野先生というと、まず福利主義のイメージを持つ人が多いのではないかと思います。¶029

これに対して、法の支配というのは伝統的な法概念という感じで、これと帰結主義や福利主義とはどういうふうに関係するのか。どうしてこの3つが基本理念になるのだろうと考える人もいるのではないかと思うのですけれども、この3つの理念の関係についてご教示いただけますでしょうか。¶030

草野ご明察のとおり、私が読売のインタビュアーに当初話しましたことは、この記事のものとは若干異なっております。福利の最大化を支える三原則として私が申し上げましたものは、帰結主義(consequentialism)と、福利主義(welfarism)と、そしてもう1つ、集計主義(aggregationism)の3つです。ちなみに、この3つは、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センが定式化した功利主義(utilitarianism)の三原則とほぼ一致しています9)セン(Amartya Sen)は、功利主義を構成する基本的な要素として、①社会的選択(法制度の設計もその一つ)の望ましさを、もっぱら、その選択がもたらす帰結の望ましさによって評価する帰結主義(consequentialism)、②帰結の望ましさを、もっぱら個人の福利に関する情報に基づいて評価する福利主義(welfarism. 厚生主義とも訳される)、③個人の福祉に関する情報を、人々の福利の単純な総和(合計)に集約する総和主義(sum-ranking)の3点にまとめている。Amartya Sen and Bernard Williams, “Introduction: Utilitarianism and Beyond,”Amartya Sen and Bernard Williams eds., Utilitarianism and Beyond, pp.1-21(Cambridge University Press, 1982),at pp.3-4[後藤玲子監訳『功利主義をのりこえて : 経済学と哲学の倫理』(ミネルヴァ書房、2019年)4頁~5頁]; Amartya Sen, On Ethics and Economics (B. Blackwell,1987), at p.39[徳永澄憲=松本保美=青山治城訳『経済学の再生:道徳哲学への回帰』(麗澤大学出版会、2002年)66頁~67頁]。¶031

その上で、この三原則とは別に、法の支配の重要性ということもお話ししましたところ、読売のインタビュアーが(ちなみに、この方は、ローマ法の木庭顕先生の論文まで読み込んでおられる非常に博学な方です)、集計主義という概念は分かりづらいので、これを外して、その代わりに「法の支配」を入れて、私の解釈の三指針としたほうが、一般読者には分かりやすいのではないかと助言くださいましたので、それに従った結果ご指摘のような形になったということです。¶032

では、集計主義とは何かと言えば、それは、国民各位の福利を何らかの方法で加法的に集計することによって、福利の最大化を量的に認識可能な概念にしようという試みの総称です。これは、確かに分かりづらい概念であり、その問題点などについては後でお話ししたいと思います。¶033

他方、「法の支配」は、論者によって様々な意味に用いられる言葉ですが、私は、(先ほどの話とも若干重複しますが)、ローマ法以来2000年の歳月をかけて人類が積み上げてきた法律家間の共有知を踏まえて社会的諸問題を解決しようという理念を意味するものとしてこの言葉を使います。そして、この意味における法の支配こそが、司法という営みのレゾン・デートル(raison d'être:存在意義)であると考えています。¶034

私は最高裁判事として過ごした日々の中で、法の支配という理念の重要性を改めて強く感じるようになりました。というのはこういうわけです。まず、私が最高裁判事に就任した当初は、自分では優れた個別意見だと思うものを書いても、それに対して、なかなか調査官たちの納得が得られずに苦慮しました。調査官の納得が得られなくてもかまわないと考える裁判官もいるかもしれません。けれども、私としては、彼ら・彼女らの積極的賛成は得られないまでも、彼ら・彼女らが十分に納得してくれる個別意見でなければ、世に知らしめる価値は乏しいと考えておりましたし、今もそう考えています。¶035

なぜならば、判例と学説を調べ尽くした上で、私の意見をできるだけ説得力のあるものにしようと真摯に考えて議論に付き合ってくれている彼ら・彼女らが納得できないものを、日本の法律家の(大多数とまでは言わないものの)相当多数が納得してくれるはずもなく、日本の法律家の相当多数が納得してくれないことを個別意見で述べても、それは自分の自己満足にはなるかもしれないけども、そのことにさしたる社会的意義があるとは思えない、と考えたからです。かくして、私は、法の支配の守護神とも言うべき調査官たちの納得を得るべく、彼ら・彼女らの意見に虚心坦懐に耳を傾け、できるだけそれと整合性があるような形に個別意見を作り直していくことに彫心鏤骨の努力を尽くすようになりました。これが、法の支配の重要性を肌身に感じたということの実情です。¶036

Ⅳ 法の支配と福利主義、集計主義

田中私も、最近、法の支配は重要だなと思うようになっています。私は、比較法の対象として主にアメリカ法を研究してきたこともあって、アメリカの司法制度は、いろいろとよいところがあるに違いないとこれまで思っていたのですが、それが今、本当に危機的な状況にあるように思えます。特に、憲法に関する最高裁の判断が政治的になってしまって、大統領が、自分の意見を追認してくれる人を最高裁判事にすればよい、そうしたら勝てるというような、ちょっと信じられないくらい危機的な状況にあるように思えます。それがきっかけで、改めて政治に対する法の存在意義、つまり、政治から一線を画して、むき出しの政治に対して制約条件を課すものとしての法ということを強く考えるようになりました。¶037

ただ、その一方で、法がそのように政治に対して制約条件を課すのだとすると、それでは法はなぜそんな価値を持てるのかを考えなければならない。法とはこういうものだから、政治に対して制約条件を課すことができるのだと言えなければならない。それは、一言で言えば、法の「中立性」ということだと思うのですけれども、中立というだけではまだ具体的な問題の解決の指針にならない。それで、もう少し中立性に中身を持たせようとしますと、中立というのは、要は関係する人々の利益を偏頗なく考慮するということではないか。そこから、まず、個人の利益こそが最も重要であるという福利主義が出てきますし、さらに、人々の利益を偏頗なく考慮するのであれば、結局、利益を集計して大きいほうがよいということに、結論としてはなるのではないか。それが集計主義だと思います。¶038

私は、草野先生の言われる三原則をある程度、自分の法律論に使ってきたと考えています。もちろん、福利主義とか集計主義という考え方に納得しない人もいます。公正とか、正義とか、そういうものが大事だという人ももちろんいます。ただ、そういう人たちが、公正とか正義というのは本当のところ何であると考えているのか、それほどはっきりしないと思っております。公正や正義に関する人間の直観は、鋭く正しいこともありますが、バイアスがかかっていて、間違っていることもある10)社会の人々が持っている公正や正義についての直観(道徳的直観)の機能と問題点(形成過程から生じるバイアス)については、特に功利主義哲学者が昔から論じてきた。R.M.Hare, Moral Thinking : Its Levels, Method, and Point (Clarendon Press, 1981)[内井惣七=山内友三郎監訳『道徳的に考えること』(勁草書房、1994年)]、特にその2章参照。認知心理学や進化生物学の知見を採り入れたより近年の議論については、田中亘「法制度設計における価値判断の方法」松井秀征=田中亘=加藤貴仁=後藤元(編)『商法学の再構築―岩原紳作先生・山下友信先生・神田秀樹先生古稀記念』1頁~48頁(有斐閣、2023年)参照。。そういうバイアスの内容を理解し、それを可能な限り矯正した上で、公正とか正義の名の下に追求しようとしているものが本当は何なのかを突き詰めて考えると、かなり多くの場合は――全部の場合がそうだとは言えないかもしれませんが――、個人の利益を集計して大きくなることがよいという方向にいくのではないか。¶039

このように言うためには、従来、公正とか正義の名の下に語られてきた法理ないしルールは、人がそのルールを前提に行動したとすれば、集計主義的に社会の人々の福利を大きくするような内容になっているのだと説明する必要があります。私は、まさにその説明を法と経済学がやってきたと思っていて、法と経済学を勉強してきた主要な動機もその点にあります11)スティーブン・シャベル(田中亘=飯田高訳)『法と経済学』(日本経済新聞出版社、2010年)。。法の支配という伝統的な法概念と、帰結主義、福利主義、集計主義というような、経済学的ないし帰結主義的な道徳哲学の概念が、どこか非常に深いところでつながっているのではないかということを、最近とみに思うようになりました。ですので、先生のおっしゃっていることには、非常に共感しています。¶040

草野今のお話は、福利最大化原理と伝統的な法律学上の諸理念、特に、正義との関係をどう捉えるかという問題に発展していくと思うのですが、私の考えはほぼ田中先生と一緒です。ただし、伝統的な法律論の世界に生きる人々の間において福利最大化原理、ないしは功利主義に対する風当たりは強く、「それってリバタリアニズムとどこが違うのですか」と12)代表的なリバタリアニズムの哲学者とされるロバート・ノーズィック(Robert Nozick 1938-2002)は、個人の自由と財産権を重視し、国家の役割を最小限に限定すべきだと主張した。彼の主著である『アナーキー・国家・ユートピア』(木鐸社、1994年)はリバタリアニズムの古典とされている。おっしゃる方も少なくありません。福利の最大化とリバタリアニズムはもちろん違いますが、極端に豊かな人と極端に貧しい人の二極化を生み出しやすいグローバルな資本主義社会のジレンマに対する有効な処方箋を提示できていないという点で両者は大同小異であると言えなくもありません(ただし、福利最大化原理の下においては、厚生経済学の第二基本定理13)注29の解説参照。を主たる根拠として、貧富の格差の問題はその解決を税法や社会保障法に委ねるべきであって、民法や商法のような一般民事法の解釈論はこの問題に拘泥すべきでないという考え方が有力であり、私も基本的にはそう考えています)14)所得分配の衡平(平等)は、税制や社会保障制度によって図るべきであり、民法や商法のような一般的な法制度は、効率性の増進、つまり分配できる所得をなるべく大きくすることを目的として設計すべきであるという主張は、とりわけ、Lewis Kaplow and Steven Shavell, "Why the Legal System Is Less Efficient Than the Income Tax in Redistributing Income," Journal of Legal Studies 23(2): 667-681 によってなされた。シャベル・前掲注11)28章も参照。ただし、この主張に対する福利主義の立場からの重要な留保として、Zachary Liscow, "Is Efficiency Biased?" The University of Chicago Law Review 85(7): 1649-1718 (2018) 参照。議論のポイントは、資産の限界効用が低減する場合には、効率性基準は、富者の利益を貧者の利益よりも傾向的に高く評価するという問題点(富者優位バイアス)を持っているということである。田中・前掲注1)23頁~34頁も参照。。ですから、正義イコール福利の最大化と断言してしまうことは、学問上の意見として言うのであればともかく、法の支配の理念によって規律されている司法の場でそれを言うのはなかなか難しい、というのが私の裁判官としての率直な感想です。¶041

ちなみに、これは今、思い出したことなので余談として聞いていただきたいのですが、今を去ること約50年前、私が大学1年生のとき、ちなみに私は大学時代遊んでばかりいてほとんど授業に出席していなかったのですが、たまたま法学入門の第1回の授業にだけは出席していたのでよく覚えておりまして、講師の団藤重光教授が、「授業用に書き下ろした法学入門の教科書がまだできていないので、今日の授業でその本の目次を全部言うから諸君はそれを書き取りなさい」と、今から考えると随分非効率的なことを学生に命じました。そこで、私たちは団藤先生の述べる目次を延々と書き取っていったわけですが(今考えると、これによって私は以後の授業に出る意欲を失ったように思います)、団藤先生が、ある章の題名として、「たとえ世界が滅びても正義は果たされなければならないのか」15)Fiat iustitia, et pereat mundus(「正義行われよ、たとえ世界が滅ぶとも」). これは、神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント1世(在位1556–1564)のモットーだったとされるが(\https://en.wikipedia.org/wiki/Fiat_iustitia,_et_pereat_mundus\>)、一般には、カントが行った同趣旨の主張の方が有名であろう。カント(熊野純彦訳)『人倫の形而上学第一部法論の形而上学的原理』(岩波書店、2024年)295頁(「そもそも正義が滅びるなら、人間が地上に生きることにはもはやなんの価値もない」)。後掲注16も参照。と言った瞬間、学生たちが爆笑しました。すると、団藤先生は非常に怒りまして、「君たちは一体何を考えているのだ。これほど重要な問題はないではないか」と言われたのです。思うに、大多数の学生は(私もそうでしたが)、「世界が滅びたら正義なんか意味ないじゃないか」と考えていましたので、団藤先生のお言葉はてっきりある種の冗談(ないしは「反語的レトリック」)だと思って爆笑したのですが、団藤先生はそれこそが法哲学の大問題であると大真面目に考えておられたようです。¶042

当時の学生たちの考え方を今私が知っている倫理学の言葉を使って言えば、まさしく、福利の最大化以外に正義の源泉となる理念はないということになるのかもしれません。そして、この考え方は、50年前においても、現代においても、多くの知識人の共有知であるように思えます(福利の最大化と人権の関係については後でお話しいたしましょう)。しかしながら、まさに団藤先生がそうだったわけですけども、一部の思想家や一部の法律家の中には、そういうものとは違う思想、いわゆる義務論なるものに共感を抱く人々がいることも事実です。えーと、義務論って、正しくは何て言うのでしたかな?¶043

田中ディオントロジー(deontology)16)義務論(deontology)とは、帰結主義(前掲注7)に反対する立場であり、望ましい帰結をもたらすとしてもすべきでない行為がある、または逆に、望ましくない帰結をもたらすとしてもすべきである行為がある、とする立場である。Shelly Kagan, Normative Ethics (Westview Press, 1998), sec.3.1. 義務論の典型と見られるものは、応報的刑罰観である。カント・前掲注15)298頁~299頁参照(「もしだれかがひとを殺害したのであれば、その者はななくてはならない。……犯罪とその報復とのあいだでなりたつ相等性としては、殺人犯に対して裁判をつうじて執行される死刑以外には存在しない。……たとえ市民社会がすべての成員の合意によって解散する(たとえば、ある島に居住する人民がばらばらになって、全世界に分散することを決定する)場合であっても、最後に牢獄に残された殺人犯が、解散に先だってあらかじめ処刑されなければならないだろう」〔強調は原文による〕)。¶044

草野ああ、そうでした。そのディオントロジーにコミットしている方も法律家の世界には結構おられまして、しかも、正直なことを言いますと、私自身も、刑事裁判の判決を書くときなどには、俄かディオントロジストに豹変してしまい、「たとえ何人の福利の改善にも寄与しなくとも、この被告人にはこれだけの刑罰を科すべきだ」と思うことが多々ありました。ああ、どうか、私を変節漢と責めないでください(笑)。私の本分はリーガルプラグマティスト17)リーガルプラグマティズム(legal pragmatism)は法と経済学の泰斗であると同時に米国連邦高裁の判事を長年務めた(後掲注37も参照)Richard Allen Posner(1939-)が唱えた法解釈の指針。その考え方を一言で言い表すのは困難であるが、法解釈を行うに当たっては、形而上学的な言説を極力排し、特定の思想や原理に過度にコミットすることなく、何のためにその法解釈を行おうとしているのか、常にその目的に思いを致し、その目的に適った、つまり、目的合理性を持った、解釈態度を保持することがリーガルプラグマティズムの目指すところである。Richard A. Posner, Law, Pragmatism, and Democracy (Harvard University Press, 2003), sec.2参照。であることなのですから(笑)。¶045

さて、そんな次第により、私は福利の最大化こそが法解釈を行う上での最重要理念であるとは思うものの、個別意見を書くに当たっては、できるだけ伝統的な法理に依拠して論を進めるようになり、福利の最大化を正面から論じるのは、そうしなければ、説得力のある論理を導き出すことがどうしてもできないと思える場合に限るようになっていった気がいたします。¶046

田中この点は、この企画が進む中で、座談会に参加されるいろいろな人が指摘する話だと思います。福利という言葉自体、法律学では必ずしもなじみがなくて、最高裁判事の意見の中でこの言葉を使われたこと自体、驚きを持って受け止めている人もいると思います。¶047

概念を理解してもらえないということは、私自身が、悩むところでもあります。私は、依頼されて、裁判所宛てに意見書を書くことがありますが、法と経済学の概念をもろに出すと、まずその概念そのものを裁判官に説明しなければならなくなって大変ですし、しかも、効率性18)効率性(正確には、潜在的パレート基準ないしカルドア=ヒックス原理による効率性)という基準は、簡単に言えば、社会の人々の利益・不利益を全て金銭評価して、ネットの利益の金額が大きくなる社会状態を望ましいものとする基準である。詳しくは、Richard A. Posner, Economic Analysis of Law (8th ed., Aspen Publishers, 2011), sec.1.2; 田中・前掲注2)23頁~24頁とそこで引用している諸文献参照。という言葉を使うと、第一感としてネガティブに捉える人がいる。経済学の知見を、どうやって伝統的な法概念に慣れている裁判官に納得してもらうかというところで苦労します。それで、もともとの法と経済学の分析では効率性を基準にされているものを、効率性という言葉を使わないで説明するといったことが必要になります。ただ、その一方で、福利主義とか集計主義についても知っていてほしいと思うものですから、そういう言葉が最高裁の判決に、とにかく個別意見ででも出たということが、たいへん意義があると私は思っています。¶048

ここには2つの課題があると思います。1つは、法と経済学において効率性や福利といった概念を用いて行われている分析を、伝統的な法律学の概念に換言して、今いる裁判官に理解してもらうこと。もう1つは、特により若い世代の人たちには、福利主義という考え方自体を基礎から知っておいてほしいというものがあります。両面作戦みたいなことを自分ではやっているつもりでして、おっしゃっていることは非常に共感しています。¶049

草野私もそのような両面作戦を進めてきたつもりでして、その過程の中で、福利という言葉を常用することを決めた次第です。法律論の中で福利という言葉を用いることがなぜ適切であると思ったかと言えば、その最大の理由は、この概念の正当性の根拠を憲法の中に見出すことができるように思えるからです。¶050

日本の憲法で最も重要な条文は何かと言えば、それは、個人一人一人の幸福を追求する権利が最大限尊重されなければならないとする13条ではないでしょうか。この条文の理念を私の言葉で敷衍すると、国民一人一人が善き人生を構想し、構想した善き人生の実現を目指して生きていく自由こそが最大限尊重されなければならないのであって、構想された善き人生の実現を促進することを福利、それを妨げることをマイナスの福利と捉えれば、福利の最大化こそが憲法上の最重要な理念であると言えるのではないでしょうか。ちなみに、福利という言葉は憲法の前文でも使われていますので、経済学者が好んで用いる「厚生」という言葉よりも法律家にとって親和性のある概念であると思います。¶051

他方、「『利益』という法律家にとってもっとなじみの深い言葉を使わずに、なぜ福利という言葉を敢えて使うのか」ということもよく聞かれるのですが、法律家は、利益という言葉を、国家的利益とか、社会的利益とか、必ずしも個人には還元し得ない価値を意味するものとしても使いますので、それと区別する点からも福利という言葉を使うほうがよいと考えた次第です。¶052

福利最大化原理を法令解釈の指導理念として積極的に活用していこうとする際に逢着する問題は何かと言えば、そこには、この原理に内在する問題と外在する問題の2つがあるように思えます。まず、内在的な問題は、先ほど触れた集計主義の弱点とも言える点ですが、個々人の福利を加法的に合算する手段を一義的に特定することは困難であるという問題です。議論の対象となる福利が、市場で調達可能な財や役務を通じて得られる利益であれば、その財ないし役務の市場価格を使って福利の価値を加法的に集計できますが、市場で調達できない財(例えば、「健康な体」)や役務(例えば、「愛情溢れる家庭生活」)の場合には、この方法を使うことが(少なくともストレートには)できません。一方、外在的な問題は、福利の価値評価を関係する人々の主観的な判断に委ねてよいのかという問題です。もっと具体的に言いますと、自分とは異なる価値観やライフスタイルの下で他人が享受している幸せを見て不愉快に思う気持ち(マイナスの福利)や、あるいは逆に、自分と異なる価値観やライフスタイルの下で人が社会的に何らかの失敗をした場合にその人がそれによって不幸になっていくことに快感を覚える気持ち(プラスの福利)が問題となります。このような感情は、社会科学の世界では「負の社会的選好」、道徳哲学の世界では「ルサンチマン(ressentiment)19)ルサンチマン(ressentiment)という言葉を道徳哲学の文脈で最初に使ったのはキェルケゴールであると言われているが、一般には、ニーチェが名著『道徳の系譜』の中で多用した言葉として知られている。」などと呼ばれていますが、いずれにしても、このような感情は福利計算にカウントすべきではない、あるいは、仮にカウントするにしても大幅なディスカウントを施すべきであるようにも思えますが。この疑念に対する明確な回答が作り出せていないことが福利最大化原理に外在する問題と言えるでしょう。以上に挙げた問題に対処するためには福利主義や集計主義の思想をより精緻なものにする必要があるのでしょうが、それが達成されていない現状においては、法の支配の原則に立ち返り、既存の諸法理(その最たるものは憲法の人権思想でしょう)の力を借りて、別の言い方をすれば、福利最大化原理を既存の諸法理の中に巧みに溶け込ませながら、論を進めていくしかない。それは困難な作業ではありますが、それこそが、プラグマティックな裁判官にとっての腕の見せ所とも言えるわけです。¶053

Ⅴ 福利の大きさを比較すること

田中ありがとうございます。福利最大化につきましては、この企画の最終回として予定されている「草野最高裁判事の法解釈論」で詳しく取り上げようと思いますし、またその前の各回でも、個別意見を検討する中で何度も話題になるかと思いますから、ここで導入的に取り上げたいと思います。¶054

草野先生の個別意見では、福利の大きさを比較するという判断基準を打ち出しているところが、伝統的な日本の裁判所の判決文に慣れた者からすると異彩を放っていて、最大の特徴だと思います。福利という言葉が明示的に書かれているものだけを挙げても、夫婦同氏制違憲訴訟(前掲最大決令和3・6・23)(⇨判例11)とか、タトゥー訴訟(前掲最二小決令和2・9・16)(⇨判例5)とか、それから民法の事件だと、賃料債権の相殺と物上代位の問題(最二小判令和5・11・27民集77巻8号2188頁)(⇨判例21)があります。また、SNS投稿による逮捕事実の公表(最二小判令和4・6・24民集76巻5号1170頁)(⇨判例16)など、多くの個別意見で、福利の大きさの比較という判断基準に拠っていることが窺えます。¶055

この福利というものの意味については、先ほど先生のお話の中でもありましたけども、「国民各位が個人として享受する利益」を意味するのであると。「個人を離れた社会全体の利益や特定の共同体、または組織の利益は含まれない」。これは、夫婦同氏制違憲訴訟(⇨判例11)の反対意見の中で述べられています。あくまで個人の利益に着目することを明確にされるために、福利という言葉を使われていると理解しています。¶056

それで、まず、そもそもなぜ福利の大きさを判断基準にすべきなのか、これが多くの読者の聞きたいところでもあると思うので、まずその点についてお聞きします。それから、福利を大きくするというと、国民全体の享受する福利の合計を大きくすること、いわばパイを大きくするということだと思いますが、これに対しては、全体を大きくするだけではなくて公平な分配ということも大事なのではないかという意見もあると思います。先生の最高裁判事の就任会見でも、パイを大きくすることと、パイの公平な分配の両方が重要であると語っておられます20)草野耕一最高裁判事就任記者会見の概要(平成31年2月13日)。。個別具体的な事件については、今後の座談会で検討することが予定されていますが、差し当たり今の段階では、ご担当された事件の中で、パイの大きさよりはむしろパイの公平な分配ということのほうが重要だと考えられた事件があったのかどうかということをお聞きしたいと思います。¶057

草野パイの大きさよりも公平な分配のほうが重要だという理由で結論を変えた事案はなかったと思います。ただし、そのことにしかるべき配慮はしていることを読者に分かってもらえるような書きぶりをした案件はいくつかあります。例えば、あはき師法の事件(最二小判令和4・2・7民集76巻2号101頁)(⇨判例14)の場合、詳しくはこの事件を取り上げるときにお話ししますが、「もしかしたら総合施術業の利用を広げることによって得られる国民全体の福利の増加のほうが、それが視覚の不自由な人々に及ぼすマイナスの福利に比べて大きいかもしれないけれども、視覚の不自由な人々の職業を確保することは非常に重要であるから、そこに少なからぬ悪影響があるとすれば、パイの大きさだけで判断するのは好ましくない」という趣旨の意見を述べたつもりです。¶058

田中大変興味深いご指摘をありがとうございます。あはき師法については、個別の法領域について検討する回で是非議論できればと思います。¶059

草野もう1件、思い出しました。家裁調査官が、ある少年のプライバシーに当たる事実を本人が特定される余地のある文章によって発表してしまったという事件(最二小判令和2・10・9民集74巻7号1807頁)がありました(⇨判例6)。この事件で最高裁は、プライバシーと表現の自由の相克に対する伝統的な法理であるところの利益衡量という観点から、発表された論文の学問的価値が高いことを重視して原告の主張を退けたのですが、私はちょっと違った考えでありまして、国家権力を行使して少年から入手した情報を使ってその少年のプライバシーを侵害する行為は、それが少年法の目的のために使われる限りにおいてのみ正当化できるものであり、それ以外の目的のために使用した場合は、それによって得られる学問的な貢献がいかに大きくても正当化し得ないという趣旨の意見を述べました(ただし、他の理由から結果的には多数意見の結論に賛成しました)。今述べた論理を先生の問題意識に沿って考えますと、福利の大きさよりも公平な分配に軍配を上げた案件と言えるかもしれません。¶060

田中なるほど。先ほど、帰結主義、福利主義そして集計主義という立場のご説明の中で、アマルティア・センの名前が出ました。センによれば、この3つの概念は、最も広い概念からだんだんスペシフィックになるという関係にあります。つまり、帰結主義とは、規範的な評価は帰結の望ましさによって行うという立場で、これが一番広い。それで、帰結主義の中の1つの立場が福利主義であり、これは、帰結の望ましさは、個人の福利によって判断しようとするものです。最後に、福利主義の中で、諸個人の福利を何らかの方法で集計したものを望ましさの判断基準にするのが集計主義です。その中で、諸個人の福利の単純な総和が大きくなるのが望ましいという形で福利を集計するのが功利主義ということになります21)センによる功利主義の理解につき、前掲(注9)参照。。ただ、もちろん、福利主義は功利主義に尽きるわけではなくて、いろいろ異なる立場が福利主義にはあります。例えばロールズのマキシミン原理のような、福利の水準が最も低い人の福利の向上を優先させようという立場があります22)マキシミン原理を要素として含む、ロールズの「正義の二原理」は、John Rawls, A Theory of Justice (Original edition, Harvard University Press, 1971), sec.46, p.302 [改訂版の翻訳であるが、ジョン・ロールズ(川本隆文=福間聡=神島祐子訳)『正義論(改訂版)』(紀伊國屋書店、2010年)402頁~403頁も参照]。。あるいは、全ての個人に一定水準までの福利は保障しなければならないという、そういう制約条件付きで、その制約を満たした上で福利の集計量を大きくするというのも1つの考え方としてあります23)福利主義(welfarism)の中の様々な立場については、Adler, supra note 7, sec.3.1参照。¶061

ただ、先ほどのお話は、今述べたような、福利主義を前提にして各人に最低限の大きさの福利を保障するという考え方よりは、むしろ、福利を実現するために必要な権利ないし人権というか、あるいは資源(resources)というか24)ドゥオーキン(Ronald Dworkin)は、福利の平等に対して資源の平等を強く主張したことで知られる。Ronald Dworkin, “Equality of Resources,” in Sovereign Virtue : The Theory and Practice of Equality (Harvard University Press, 2000) [小林公=大江洋=高橋秀治=高橋文彦訳『平等とは何か』(木鐸社、2002年)]参照。、そういったものを一定程度まで保障した上で、福利の集計量を大きくするという考え方かなと思ったのですけど、いかがでしょうか。¶062

Ⅵ 福利主義と人権の関係

草野私の考える優先順位も先生のおっしゃるものとほぼ同じです。まず、最も重要な法令解釈上の指導理念はリーガルプラグマティズムであって、そのための最善の方法が帰結主義であり、帰結主義に一番適切な方法が福利主義であり、福利主義を活かす方法は、原則として集計主義だけれども、そのヴァリエーションとして、ロールズのマキシミン原理的なものも当然あってよいと思います(増加率が非常に逓減的なフォン・ノイマン=モルゲンシュテルン効用関数25)期待効用仮説(人は利得の期待値の最大化ではなく効用の期待値の最大化を目的として行動するという仮説)を説明するために考案された、利得を独立変数、効用を従属変数とする関数のことである。を想定すれば、ロールズのマクシミン原理は集計主義のヴァリエーションとして捉え得るでしょう)。¶063

福利最大化原理と人権との関係については、是非お話ししておきたいことがあります。憲法学では人権保障こそが我が国憲法上の最重要な理念であるとされています。その点に異論はありませんが、ご承知のとおり、人権思想は、17世紀のイギリスの2つの革命と、それから18世紀の2つの大革命、つまりアメリカの独立戦争とフランスの大革命の中から生まれてきた思想であって、その時点では、まだ福利の最大化という思想は現れていませんでした。つまり、人権思想が生まれた当時の国家とは、国民の目から見れば、ある種のブラックボックスであって、為政者は様々な目的のために国家を動かしていくかもしれないが、いかなる場合においても国民の人権を侵すことがあってはならないという、ある種の抵抗権として人権思想は生まれてきたように思えます。¶064

しかしながら、近代国家という観念が確立された19世紀から20世紀に至り、国家の主たる存在理由は国民の生命と財産を守り、国民の幸福を増進させることであると考えられるようになりました。そして、このような国家観の確立と並行して功利主義思想が生まれるに至ったことは決して偶然ではないと思います。なぜならば、国家がもはやブラックボックスではなく、国民の生命と財産を守り、国民の幸福を増進させるという明確な目的のために営まれるべき存在であるとされた以上は、この目的の実現に向けられた指導理念が必要であり、かかる指導理念として功利主義思想が生まれたと考えられるからです。そして、国家の存在理由とその指導理念が定まった以上、人権思想の位置付けもおのずから変わらなければなりません。すなわち、たとえ国家がその存在目的を正しく果たすべく国民の福利の最大化を図っているとしても、なお、ある種の福利は、たとえそれが国民全体の福利の総和という観点から見ればどんなに小さなものであっても、侵すことが許されてはならない、それが人権である、という捉え方こそが近代国家における人権思想の正しい理解と言えるのではないでしょうか。だとすれば、我が国の憲法を解釈する上においても、福利最大化原理は、(歴史的にはそうでなくとも論理的には)人権思想に先行する指導理念として尊重されるべきであるように思えます。ところが、日本の憲法学者は、少なくともある種の憲法学者は、人権思想の重要性を強調しながらも、功利主義やその後衛思想であるところの福利最大化原理の価値を正当に評価せず、その結果として、福利最大化原理を言語化する上で不可欠な知見であるところのミクロ経済学の研究を怠ってきたのではないでしょうか。こんなことを言うと、今後のこの座談会にご参加になる憲法の先生方に叱られそうですが(笑)。なお、先ほどの先生の最後のご質問についてですが、私は、今申し上げました次第により、人権思想は福利の最大化を制約する原理と捉えております。人権をもって資源の保障と捉えるドゥオーキンの考え方は知りませんでしたので勉強してみたいと思います。¶065

田中日本国憲法ができた頃の法学者の論文を読んでいると、例えば我妻栄は、公共の福祉が実現すべき究極の目標であって、人権はそのための手段だという趣旨のことを書かれています26)我妻栄「民主主義の私法原理」同『民法研究Ⅰ・私法一般』(有斐閣、1966年[初出1949年])1頁〔3頁〕(「近世民主主義においては、『公共の福祉』が永遠の目的であって、『自由』と『平等』とは、その目的に達するための手段である」)。。もっともこれは、今日の憲法学では、あまり顧みられていないと思います。ただ、その一方で人権論の中には、表現の自由は、単に個人の利益に資するというだけではなくて、賢明な政治的判断が下されるようにするためには表現の自由が不可欠だという手段的な価値も援用して、だから表現の自由には優越的地位が認められるといった議論がありますでしょう。古くは、ミル(John Stuart Mill)がそのようなことを言っています27)J.S.ミル(斉藤悦則訳)『自由論』(光文社、2012年)2章。¶066

私は、人権と福利主義はどういう関係に立っているのかという問題は、この座談会でも、将来的にテーマにしたいと思っています。福利主義一元論からすると、福利をより効果的に最大化するためには、国家機関による、全体の福利ではなくて一部の人たちの福利を増大させようとするような、いわばゆがんだ決定を防止する必要があるので、そのための重要な手段が人権なのだという発想になると思います。そういうふうに、福利主義一元論で人権を説明し尽くせるかというのは、かなり重要な論点だと思いますが。¶067

草野私は福利主義と人権を二元的に捉えているのですが、先生は両者を一元化できるかもしれないとお考えなのですね。¶068

田中そうです。できるかもしれないと思っています。ただ、そこは人によって考え方の違いはあるだろうと思います。この企画の最終回で、人権の保障を功利主義によって正当化する立場の小川亮先生28)小川亮『一元的司法審査論』(東京大学出版会、2025年)391頁(「権利はすべて公益を最大化するための手段としてのみ保障される」)。著者は、功利主義を基礎とする権利論を構想しており、ここでいう「公益」も、諸個人の「効用[福利]の総計」(小川・前掲279頁)を意味する。をお呼びする予定なので、そのとき議論したいと思っています。私としては、差し当たり、人権の中には福利主義と親和的なものも多いというか、少なくとも真っ向から対立しているわけではないということは大事だと考えています。¶069

Ⅶ 関係諸科学の活用

田中それでは、経済学、統計学といった、関係諸科学の活用というテーマに移りたいと思います。先生は、最高裁判事に就任される前から、経済学、統計学といった関係諸科学の積極的活用を提唱されてこられたと思います(『数理法務のすすめ』など)。最高裁判事として意見を書かれる中で、そうした関係諸科学の有用性を実感した事件がありましたらご教示ください。¶070

草野はい。まず、ミクロ経済学の有用性を実感した案件としましては、あはき師法の違憲訴訟(前掲最二小判令和4・2・7)(⇨判例14)、固定残業代制度に関する訴訟(最二小判令和5・3・10判時2571号95頁)(⇨判例17)。それから、物上代位と相殺の優劣をめぐる訴訟(前掲最二小判令和5・11・27)(⇨判例21)などが思い出されます。統計学の知見を利用した事件としては、議員定数不均衡訴訟の事件(最二小判令和2・10・23判時2481号9頁最大判令和5・10・18民集77巻7号1654頁)(⇨判例7と⇨判例18)があり、被用者から使用者への逆求償が認められるか否かが争われた事件(最二小判令和2・2・28民集74巻2号106頁)(⇨判例3)では、確率論からファイナンス理論に至る知見を総合的に活用し得たように思います。¶071

田中ありがとうございます。法解釈論にそれらの関係諸科学を用いることの限界、あるいは留意すべき点について、お考えがあればご教示ください。¶072

草野1つの問題は、申すまでもないことですけども、これらの知見自身にも論理的に完全とは言えない部分がありますので、それを用いたからといって、問題を快刀乱麻を断つがごとくに解決できるわけではないという点です。もう1つの問題は、これらの知見を強調し過ぎると、一部の法律家の反発を無用に煽ってしまうという点です。そこで、先ほどの話と少し重複しますが、これらの知見を判決の中で明示的に引用する際には、それが伝統的な法解釈論とうまく整合するように、決して木に竹をつなげたような文章にならないように注意してきたつもりです。¶073

もう少し深刻な問題をお話ししますと、私はミクロ経済学の原点である厚生経済学の基本定理29)ワルラス均衡(注30参照)はすべての消費者にとって個人合理的でパレート効率的な資源配分をもたらすという厚生経済学の第一基本定理と、納税額が納税者の経済行動に依存せずに定まる税と受給額が受給者の経済活動に依存せずに定まる補助金を使って初期配分に変更を加えれば、個人合理的でパレート効率的ないかなる資源配分もワルラス均衡として実現可能であるという厚生経済学の第二基本定理の総称。これらの定理の内容(前提条件を含む)と証明方法、及びその含意についての学習者向けの解説として、神取道宏『ミクロ経済学の力』(日本評論社、2014年)3.3節、奥野正寛=鈴村興太郎『ミクロ経済学Ⅱ』(岩波書店、1988年)17章参照。(ワルラス均衡の存在定理30)すべての財に関して各消費者の需要の合計と各企業の供給の合計が一致する(この状態を「ワルラス均衡」という)実現可能な資源配分を作り出す価格ベクトルがつねに存在するという定理。を含む)は、人類が発見した最も偉大な真理の1つであると考えておりまして、この定理こそは、民事や商事の法律論を展開する上での理論的支柱となるべきものだと思っています。しかしながら、そう思えば思うほど、多くの法律家にこの定理の偉大さと、そこに内在する限界を正しく理解してもらうことの困難さを感じざるを得ません(ちなみに、この定理を厳密に証明するためには不動点定理や分離超平面定理など結構難しい数学を必要とします)。¶074

この問題の背景には、我が国の法学教育において数学の勉強があまりにも軽視されてきたという事実があると思います。ちなみに、最高裁の調査官の皆さんは、私がこれまでの人生で遭遇してきたあらゆる人間集団の中でも最も優秀で高潔な人々の集団であったと思いますが、彼ら・彼女らですらも皆が数学を得意としているわけではありません。ただし、調査官の方は皆勉強熱心ですので比較的容易に問題を克服することができました。例えば、ある調査官が案件の検討をしている最中に、「草野裁判官、私は数学が不得手なものですから」と弱音を吐いたので、私は次のように言って彼を叱咤激励しました。「あなたは日本のベスト・アンド・ブライテストな法律家としてこの場に臨んでいるのですから、あなたには、そのようなことを言う自由はありません。数学が苦手なら、今日から直ちに高校と大学教養課程の数学を復習してください。」しかるところ、この調査官はわずか数週間でその案件を数学的に分析する技法を習得し、私の個別意見の作成にこの上なく有益な助言をしてくれました。しかしながら、全国津々浦々で働く裁判官や弁護士の皆さまにこのような叱咤激励をする資格は私にはありませんし、仮にそうしたところで、煙たがられるだけでしょう。現に、私の『数理法務のすすめ』はあまり売れておらず、有斐閣の担当者に肩身の狭い思いをさせております(笑)。問題状況を抜本的に改善するためには、やはり、大学の教育のあり方(入試科目の選別を含む)を改革し、いやしくも法曹を目指すものはすべからく解析と線形代数の基礎まではマスターしているようにすべきではないでしょうか(ただし、この目標を効率的に達成するためには、このような基礎知識を司法試験の教養科目に加えることが必要でしょう。その理由は後で述べます)。¶075

田中重要なご指摘だと思います。大学で授業していても、今はひと頃よりもよくなってきていますが、高校の卒業年次によっては、数列や級数の辺りを学習しておらず、理解が十分でなかったりすることがあります。だから、標準的な株式価値の評価方法として裁判にも登場するディスカウンテッド・キャッシュフロー(DCF)法31)ディスカウンテッド・キャッシュフロー法と裁判における利用については、久保田安彦「株式価値の評価」田中亘編著『数字でわかる会社法』(有斐閣、2021年)2章、28頁~42頁参照。を教えることに困難を来すこともありました。法学部生やロースクール生は、いわゆる文系数学(文系の大学受験をする場合にも高校で学ぶ範囲の数学)しか学んでいないことが多いですが、その文系数学の範囲が高校卒業年次によって違っていて、年次によってはそういう問題が出てきたのではないかと思います。ほかには、確率論とか統計学とかの知識が十分でないと感じることもあります。¶076

さらに、法律を学ぶ人たちに是非、知っておいてもらいたいのはベイズ・ルール(ベイズの定理)ですね。先生も『数理法務のすすめ』の最初の章でこの定理を詳しく説明されていたと思います。ベイズ・ルールとは、何らかの事象(例えば、被告人が有罪であるかなど)についての主観確率(信念)を、それに関係する新しい証拠ないし知見が得られたときに、その証拠、知見の信頼性を考慮しながら改訂していくプロセスです32)ベイズ・ルール(ベイズの定理)とは、2つの事象AとBに対して定義される条件付き確率を結び付けるものである。事象Aが起こる確率(事前確率)をP(A)、事象Bが起こる確率(事前確率)をP(B)、事象AとBが同時に起こる確率をP(A,B)とする。また、事象Aが起きたことを前提として事象Bが起こる確率(条件付確率)をP(A\|B)、事象Bが起きたことを前提に事象Aが起こる確率(条件付確率)をP(B\|A)とする。そのとき、

$$P(A|B) = \frac{P(A,B)}{P(B)} = \frac{P(A)P(B|A)}{P(A)P(B|A) + P(\overline{A})P(B|\overline{A})}$$

が成立する。ここで、$\overline{A}$とは、事象Aが起こらないことを意味し、$P\left( \overline{A} \right) = 1 - P(A)$である。ベイズ・ルールに従った推論をすることの重要性、および人々の多くがベイズ推論を行えていないことにつき、スティーブン・ピンカー(橘明美訳)『人はどこまで合理的か(上)』(草思社、2022年)5章で解説されている。
。ベイズ・ルールに従った推論(ベイズ推論)は、全ての知的な分析の基礎だと思います。科学的な分析はもちろんそうですが、倫理学のような価値判断にとっても、ベイズ推論は重要です。ベイズ・ルールは、文系数学だけやっている人だと修得していないことがあり、そこに限界みたいなところを感じることが実際にあります。¶077

本当は文系、理系問わず知っていなければならない数学は必ずあるはずですが、日本は少し文理の区別というのが大き過ぎるというか、極端になっているところがあります。ただ、そうは言っても基本的な考え方を知ってもらえないといけないと思うので、なるべく高度な数学は使わないで説明するようにしています。それについては、先生は割と容赦なく数学をお使いになるなと思っているのですが。もちろん、厳密な理解のためには、数学は不可欠であり、その辺りについて、私もどのように学生に教えるかで悩むことはあります。¶078

草野確かに、私には昔から数学フェチなところがありまして33)草野が数学fetishism(つまり、数学に対する物神的崇拝)とも言われかねない思考癖を抱くに至ったいきさつについては、草野耕一『未央の夢――ある国際弁護士の青春』(商事法務、2012年)の1章と2章を参照されたい。、自分でも、「厳密性にこだわり過ぎている」と反省することが少なくありません(笑)。¶079

ちなみに、ベイズの定理の論理的前提である主観確率という概念は、むしろ理系の人こそが誤解しがちな概念です。理系の人は、確率の意味に関する哲学的考察を省略して、コロモゴロフの公理論的な確率論34)ロシアの数学者Andrey Nikolaevich Kolmogorovは、確率に関する意味論を「棚上げ」して確率を純粋に公理論的な体系として記述することに努めた。しか学んでいないために、客観確率と主観確率の違いを意識しないで議論を進めがちだからです。先日も、数学科出身のインベストメントバンカーが、「被告人が被害者を本当に殺したか否かは過去の事実の真偽にかかわる問題であるから、そのことを確率論的に論ずること自体がおかしい」と言っているのを聞いてびっくりしました。確かに、「人を殺したか否か」は歴史的には既に確定していることですから、殺したという事実が正しいことの客観確率は100%か0%かの2つに1つしかあり得ません。しかしながら、ベイズの定理の前提である主観確率とは、ある事実が正しいと思う「信念の度合い(degree of belief)」の数量的表現にほかならず35)信念の度合いをいかに数量化すれば公理論的な確率論の諸法則が主観確率にも当てはまり得るかについては、『数理法務のすすめ』1章の解説を参照されたい。、したがって、「被告人は、90%以上の(主観)確率で被害者を殺している」という主張は合理的な意味を持っています。¶080

ですから、文系に偏した人が理系の知識を欠いていることが問題であるのと同様に理系に偏した人が文系の知識、特に哲学を知らないことも問題であって、やはり文理両道の道こそが未来を担う法律家の歩むべき道ではないでしょうか。¶081

田中そうですね。¶082

Ⅷ 経済分析の利用と法律学

田中数学的な厳密さもそうですけども、私が経済分析に特に惹かれたのは、前提を明示するという考え方です。法律学の議論では、どういう前提に立って議論しているのかが分からないことがよくあります。さらに言うと、どういう価値判断基準に立っているのかもよく分からないものですから、具体的な法律問題について法律家や法学者の言っていることを聞いて、「どうもこの人はこういう前提に立っているみたいだ」とか、「こういう価値判断基準を取っているみたいだ」といったことがうかがえるだけ、ということが少なくないのですね。¶083

経済分析が法学の発展に役立つと思う点は、前提を明示して、この前提の下であればこういう結論が出るということをはっきりさせて議論をしていることです。もちろん、その際の前提は、せいぜい現実社会の近似であるにすぎませんから、経済分析を実際に法律論に採り入れるに際しては、その前提が現実社会のあり方をどこまで近似しているかの吟味が必要になります。この点が、経済分析を法学に活用していくときの留意点ですし、また、その吟味をするところに、法律家・法学者の役割も見出せると考えています。私も、しょせんは法学者として判決などを読んで得た知識にすぎないとはいえ、法律問題がかかわる現実の事件についてある程度の知見を持っています。そこで、経済分析で採用されている前提が、現実をどこまで近似しているかについてある程度の知見に基づく判断は下せる、その辺りに、法学者の存在意義があるだろうと思っています。¶084

草野前提を明示することによって議論を明晰なものにすることは大変重要です。カール・ポパー36)Karl Raimund Popper(1902-1994)は、オーストリア出身の哲学者。代表作である『歴史主義の貧困(The poverty of historicism)』と『開かれた社会とその敵(The open society and its enemies)』は分析哲学を理解する上で必読の古典である。の言葉を借りて敷衍すると、フォールシフィアビリティ(falsifiability:反証可能性)が重要だということです。主張の前提が明示されなければ、その主張の誤りを指摘することができない。そして、誤りであることを論証することのできない、つまりフォールシフィアビリティのない命題は、学問的には(したがって、法廷の場においても)意味を持ち得ません(ちなみに、ポパーによれば、プラトンのイデア論やヘーゲルの弁証法やマルクスの史的唯物論は、いずれも反証可能性が著しく低い言説です)。そして、伝統的な法律学の世界には反証可能性が低い言説が跳梁跋扈していることは否定し難い事実です。ただし、これを全否定してしまうと、法律学の基盤が失われてしまいます。そこで、伝統的な法律論もできる限り尊重した上で特に使い勝手の悪いところから始めて、少しずつ論理を新しいものに切り変えていく、そういう営みが私たちに託されている課題なのではないでしょうか。¶085

田中そうですね。もう1つ、法と経済学に私が惹かれた要因として、特にこの学問分野の創始者(ファウンディング・ファーザーズ)たちが、経済学だけでなく法学の伝統的な議論にも通じていたことがあると考えています。リチャード・ポズナー37)Richard A. Posner (1939-). アメリカの法学者、裁判官。法学に経済分析を導入した多数の業績を公表。主著に、The Economics of Justice (2nd ed., Harvard University Press, 1983); The Problems of Jurisprudence (Harvard University Press, 1990); Economic analysis of law (8th ed., Aspen Publishers, 2011)。ポズナーが提唱したリーガル・プラグマティズムについて、前掲注17参照。は、もともと法律家だから当然ですけれども、ロナルド・コース38)Ronald H. Coase (1910-2013). イギリス生まれのアメリカの経済学者。1991年にノーベル経済学賞を受賞。主著に、The Firm, the Market, and the Law (The University of Chicago Press, 1988)[ロナルド・H・コース(宮沢健一=後藤晃=藤垣芳文訳)『企業・市場・法』(東洋経済新報社、1992年)]がある。も、イギリスの判例法なども学んでいるようです。コースの有名な「社会的費用の問題」という1960年の論文を読んでも、コモンローの裁判所が、外部性の問題をこういうふうに解決しているのだということを、判決を読んで分析しています39)Ronald H. Coase, “The Problem of Social Cost,” The Journal of Law and Economics, Vol.3, (1960), pp.1-44 (pp.8-15) (宮沢ほか訳・前掲注38)121頁~130頁).¶086

それから、個人の合理性を前提にする古典的な経済学のモデルと比較した場合、裁判所は、具体的な事案を解決する中で、人間の合理性の限界のようなことについて豊かな知見を蓄積し、それに対応する法理も形成してきたと思います。それは、例えば信義誠実の原則(信義則)とかですね。あれは、人間は先々のことについて、今、明示の意思表示をして契約に書くほどには特定できないけれども、しかし、何か期待とか了解みたいものを持っていて、それを前提にして人間社会は動いているところがある。そこで、事後的に裁判所が、こちらの当事者はこういう期待を持っていて、当時の状況ではそういう期待を抱くことはもっともであるから、あなたがそれを裏切ることは信義に反するという形で事件を解決していく。¶087

草野なるほど。¶088

田中最近出た法と経済学の本でも、英米法では、エクイティ(衡平法)がそういう役割を果たしてきたという認識の下に、それを経済学のモデルを用いて分析したものがあります40)Kenneth Ayotte, Ezra Friedman and Henry E. Smith, A Safety Valve Model of Equity as Anti-opportunism (Cambridge University Press, 2023).。私は、その本で分析されているエクイティの役割を日本法で果たしているものは、信義則だろうと思います。長い年月を生き抜いてきた法理は、人類の英知のようなものが含まれているので、そこのところをきちんと可視化するというか、言語化して後世に伝えていくことができればいいと思います。¶089

草野伝統的な法律学も捨てたものではないということですね。¶090

田中そうですね。私の実感では、いかにも難しい法律学の議論には大した価値はないけれど、裁判所が積み上げてきた判決の中には価値があるということが多いですね。¶091

草野全く同感です。ちなみに、これは余談といえば余談ですが、法律家の共有知の中にはるある種の「知恵(wisdom)」が多々含まれているようであり、それを明示的に分析しているという点で、私はドゥオーキンの『Law’s Empire(法の帝国)』にとても惹かれています。ただし、難しくてなかなか読めないのですが、この座談会の最終回を迎えるまでには完読して(最終回のゲストとして来ていただく予定の小川先生は研究活動をドゥオーキンから始めたと聞いています)、ドゥオーキンの諸概念を使いながら話ができるようになれるといいなと思っています。是非先生にも読んでもらって、ドゥオーキンを私たちの共有知にいたしませんか。¶092

田中そうですね。ただし、ドゥオーキンは『法の帝国』以降も、それこそ死の直前まで執筆を続けていたようですので、どこまで彼の思想を勉強すればよいかと思っているところです(笑)。¶093

草野それは、ちょっと困りましたね(笑)。¶094

Ⅸ 実務の視点

田中用意したものでは最後の話題になります。「実務の視点」ということについてです。今回、先生の個別意見を全部読んでみて、福利主義とか関係諸科学の活用のような、多くの人に既に知られているであろう特徴だけではなくて、弁護士として企業法実務に長く従事されてきたご経験が活かされている意見も目立っていたと思います。¶095

具体的には、例えば公認会計士協会決定の開示差止め事件(最二小判令和2・11・27判時2487号28頁)(⇨判例9)では、原判決が期中キャッシュフローについて監査をする必要性を認識していないことを批判されています。また、民事再生手続の再生計画の認可事件(最二小決令和3・12・22裁判所Web〔令和3年(許)第4号〕)(⇨判例13)では、管財人が再生計画案を合意まで持っていくのには非常な困難があるのだということを書かれていて、これについては実務の知見が活かされていると思いました。¶096

そこで、裁判官にとっての実務経験の重要性について、まずはご教示いただければと思います。¶097

草野詳しく判決を読んでいただいて、誠にありがとうございます。おっしゃるとおり、今、ご指摘あった2つの案件は、私の実務経験を多少なりとも活かすことができました。他方において、私の専門分野であるM&A法の案件で意見を述べる機会が一度もなかったことは残念でした。最高裁判事は担当する案件をコントロールできませんので、その点は仕方ないのですが、他方において、扱う事件は国際法から知財法から家事法に至るまで、あらゆる分野の法律に及びますから、経験を活かすと言ってもおのずからそこには限界があります。しかしながら、1つの専門職の仕事しかしたことがないことと、ある程度多様な経験があることの間には、創造的思考の裾野を広げるという点で大きな違いがあると思います(私の場合には、国際弁護士としての経験に加えて、社外役員や顧問弁護士としていくつかの会社の経営に携わった経験と多年にわたり大学で教鞭をとった経験も創造的思考力の強化に役立ったように思います)。¶098

ですから、読売新聞のインタビューでも述べましたけれども、大志を抱く法律家が、裁判官、弁護士、検事、大学の研究者、それから司法試験と国家総合職の公務員試験をうまく合体させることができるとすれば、行政官も含めて、様々なキャリアライフを経験できるようにすることが日本社会全体にとって重要であり、そのような経験を積んだ人の中から連綿として最高裁判事が選ばれていってほしいと願う次第です。¶099

ちなみに、この点は、最高裁判事ばかりではなく調査官にも言えることでして、調査官の大多数が裁判官の経験しかない人であることは、現行の制度が画竜点睛を欠いている点であると思います。もっと具体的に言いますと、最優秀な大学研究者の方々を特別調査官に採用したならば画期的な判決がどんどん生まれていくのではないでしょうか。私の場合でも、例えば田中先生が特別調査官になってくれていたとしたら、もっと優れた判決を書けたように思います(笑)。¶100

さらに言えば、裁判官の方々に対しては、他のキャリアの経験もさることながら、経済学も含めて、法の数理分析の技法を学ぶ機会を確保する必要があると思います。この点は日本の法曹教育の宿痾とも言えることですが、要するに優秀な学生は、最小限の年数で司法試験に受かることを目指します。そのことが法曹としてのキャリアを始めるに当たっての1つのステイタスとなることは否定し難い事実ですから、そのような志向を嘆いてみたところで始まりません。問題は、この結果、優秀な学生ほど、法曹のキャリアライフには重要ではあるものの司法試験には役立たない知識の習得を割愛して法律家としての人生を歩み始めてしまうことにあります(先ほど、法の数理分析は司法試験の教養試験科目にしたほうが良いと述べたのはこのためです)。それでも、弁護士、特に大手事務所に入った弁護士は、新人教育の一環としてこれらの知識を勉強させられますので、そこで教養の欠如をある程度キャッチアップできますが、裁判官の場合にはその機会がありません。ですから、司法試験合格者を多数輩出している大学が主体となって、裁判官たちが学びながらそのような知識を習得できる(しかも、どうせ習得するなら、博士号の取得も目指せる高度なレベルの)教育課程を作っていただきたいと思う次第です。¶101

田中ありがとうございます。近年では、弁護士としてキャリアを積まれた方が博士課程に来られて、博士論文を書くケースも見られるようになりました。ただ、法曹資格を得た人がさらに勉強される場として、日本の大学が、アメリカとかイギリスの大学・ロースクールに負けてしまっている現実があります。本当は日本語で勉強したほうが、必要な知見を低コストで学べるわけですから、日本の大学に来てほしいと思うところもありまして、その点では日本の大学も、法曹実務家になられた人にとっても魅力的になるように、自己改革しなければならないなと思っております。¶102

Ⅹ 最後に

田中最後に、今回の企画を始めるに当たり、ご意見があればお聞かせください。¶103

草野はい。この座談会は、その素材となっている私の個別意見も含めて、1人でも多くの法律家、特に現役の裁判官の皆さまに読んでもらいたいと思っているのですが、キャリア裁判官の方々が私の個別意見を読まれると、「なぜこんな仰々しいことまで言うのだろう。判決は簡潔をもって旨とすべきものではないのか」という疑問を抱かれるかもしれません。私自身も、先輩の最高裁判事の方々から、「草野裁判官の判決起案に寄せる情熱は多とするものの、いかんせん文章が長く、しかも、刺激的である。文章を長く刺激的なものにすることは、それだけ心なき読者に難癖をつけられるリスクを高めることにつながり、草野裁判官自身のためにもならないのではないか」という趣旨のご助言をいただいたことが多々ありました(小声で言いますと、このようなご助言は、刑事裁判や法務省勤務の経験が長かった諸先輩からいただくことが多かった気がします)。司法を取り巻く現実世界の厳しさを踏まえて言えば、このご助言は正鵠を射たものであり、私自身もそのような配慮の下に個別意見の発表を見送ったケースもありました。しかしながら、個別意見を発表する以上は譲れない一線というものが私にはありました、その一線とは、個別意見は国民に希望を与えるものでなくてはならない、という点です。司法の伝統に則って書かれる多数意見はどうしても紋切り型のものになりがちです。確かに、紋切り型の判決文には、「無用な批判を避け得る」、「司法の尊厳を印象付け得る」、「文学的才能が豊かでない裁判官でも起案できる」、「個性のない文章のほうが多数の裁判官の意見の一致を得やすい」、「法令解釈は三段論法のように単純なものであるかのごとき外観を作出することにより、『司法が立法権を侵す』ことにセンシティブなある種の民主主義擁護論者の批判を抑制できる」などのプラグマティックな利点がありますが、その反面として、国民の司法に対する期待を萎えさせるような冷え冷えとした気配が漂いがちです。そして、判決がこのような文体の物ばかりであるとすれば、到底私が望む司法立国の構築は果たし難いように思えます(司法の働きを通して、豊かで公正で寛容な社会を構築する営みのことを、私は、「司法立国」と呼んでいます)。このジレンマを克服するものこそが個別意見である、というのが私の考えです。個別意見では、それが多数意見に賛成するものであるか反対するものであるかにかかわらず、裁判官が国民の福利を(あるいは、もっと一般的に、社会正義を)真摯に考えて判決を起案していることを明らかにすることができます。そして、そのような個別意見を伴う判決は司法に対する国民の信頼を高め、司法の働きを通じて我が国社会がさらに善き社会となっていくという希望を国民にもたらすことができるのではないでしょうか。そして、個別意見がこの役割を適切に果たすためには、文章がある程度冗長となったり刺激的になったりすることはやむを得ないことであると私は考えています。ですから、私の個別意見をお読みいただく際には、文章の長さや表現の穏当さにはあまりとらわれず、総じて国民に希望を与えるものとなっているか、なっていないとすれば、どこをどのように改めたらよかったのか、などの点を考えながら読んでいただければ有り難いと思います。¶104

田中このたびはありがとうございました。取りあえず、初回はこれでお開きとさせていただきます。¶105

草野ありがとうございました。¶106