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草野1つの問題は、申すまでもないことですけども、これらの知見自身にも論理的に完全とは言えない部分がありますので、それを用いたからといって、問題を快刀乱麻を断つがごとくに解決できるわけではないという点です。もう1つの問題は、これらの知見を強調し過ぎると、一部の法律家の反発を無用に煽ってしまうという点です。そこで、先ほどの話と少し重複しますが、これらの知見を判決の中で明示的に引用する際には、それが伝統的な法解釈論とうまく整合するように、決して木に竹をつなげたような文章にならないように注意してきたつもりです。¶073

もう少し深刻な問題をお話ししますと、私はミクロ経済学の原点である厚生経済学の基本定理29)ワルラス均衡(注30参照)はすべての消費者にとって個人合理的でパレート効率的な資源配分をもたらすという厚生経済学の第一基本定理と、納税額が納税者の経済行動に依存せずに定まる税と受給額が受給者の経済活動に依存せずに定まる補助金を使って初期配分に変更を加えれば、個人合理的でパレート効率的ないかなる資源配分もワルラス均衡として実現可能であるという厚生経済学の第二基本定理の総称。これらの定理の内容(前提条件を含む)と証明方法、及びその含意についての学習者向けの解説として、神取道宏『ミクロ経済学の力』(日本評論社、2014年)3.3節、奥野正寛=鈴村興太郎『ミクロ経済学Ⅱ』(岩波書店、1988年)17章参照。(ワルラス均衡の存在定理30)すべての財に関して各消費者の需要の合計と各企業の供給の合計が一致する(この状態を「ワルラス均衡」という)実現可能な資源配分を作り出す価格ベクトルがつねに存在するという定理。を含む)は、人類が発見した最も偉大な真理の1つであると考えておりまして、この定理こそは、民事や商事の法律論を展開する上での理論的支柱となるべきものだと思っています。しかしながら、そう思えば思うほど、多くの法律家にこの定理の偉大さと、そこに内在する限界を正しく理解してもらうことの困難さを感じざるを得ません(ちなみに、この定理を厳密に証明するためには不動点定理や分離超平面定理など結構難しい数学を必要とします)。¶074

この問題の背景には、我が国の法学教育において数学の勉強があまりにも軽視されてきたという事実があると思います。ちなみに、最高裁の調査官の皆さんは、私がこれまでの人生で遭遇してきたあらゆる人間集団の中でも最も優秀で高潔な人々の集団であったと思いますが、彼ら・彼女らですらも皆が数学を得意としているわけではありません。ただし、調査官の方は皆勉強熱心ですので比較的容易に問題を克服することができました。例えば、ある調査官が案件の検討をしている最中に、「草野裁判官、私は数学が不得手なものですから」と弱音を吐いたので、私は次のように言って彼を叱咤激励しました。「あなたは日本のベスト・アンド・ブライテストな法律家としてこの場に臨んでいるのですから、あなたには、そのようなことを言う自由はありません。数学が苦手なら、今日から直ちに高校と大学教養課程の数学を復習してください。」しかるところ、この調査官はわずか数週間でその案件を数学的に分析する技法を習得し、私の個別意見の作成にこの上なく有益な助言をしてくれました。しかしながら、全国津々浦々で働く裁判官や弁護士の皆さまにこのような叱咤激励をする資格は私にはありませんし、仮にそうしたところで、煙たがられるだけでしょう。現に、私の『数理法務のすすめ』はあまり売れておらず、有斐閣の担当者に肩身の狭い思いをさせております(笑)。問題状況を抜本的に改善するためには、やはり、大学の教育のあり方(入試科目の選別を含む)を改革し、いやしくも法曹を目指すものはすべからく解析と線形代数の基礎まではマスターしているようにすべきではないでしょうか(ただし、この目標を効率的に達成するためには、このような基礎知識を司法試験の教養科目に加えることが必要でしょう。その理由は後で述べます)。¶075

田中重要なご指摘だと思います。大学で授業していても、今はひと頃よりもよくなってきていますが、高校の卒業年次によっては、数列や級数の辺りを学習しておらず、理解が十分でなかったりすることがあります。だから、標準的な株式価値の評価方法として裁判にも登場するディスカウンテッド・キャッシュフロー(DCF)法31)ディスカウンテッド・キャッシュフロー法と裁判における利用については、久保田安彦「株式価値の評価」田中亘編著『数字でわかる会社法』(有斐閣、2021年)2章、28頁~42頁参照。を教えることに困難を来すこともありました。法学部生やロースクール生は、いわゆる文系数学(文系の大学受験をする場合にも高校で学ぶ範囲の数学)しか学んでいないことが多いですが、その文系数学の範囲が高校卒業年次によって違っていて、年次によってはそういう問題が出てきたのではないかと思います。ほかには、確率論とか統計学とかの知識が十分でないと感じることもあります。¶076

さらに、法律を学ぶ人たちに是非、知っておいてもらいたいのはベイズ・ルール(ベイズの定理)ですね。先生も『数理法務のすすめ』の最初の章でこの定理を詳しく説明されていたと思います。ベイズ・ルールとは、何らかの事象(例えば、被告人が有罪であるかなど)についての主観確率(信念)を、それに関係する新しい証拠ないし知見が得られたときに、その証拠、知見の信頼性を考慮しながら改訂していくプロセスです32)ベイズ・ルール(ベイズの定理)とは、2つの事象AとBに対して定義される条件付き確率を結び付けるものである。事象Aが起こる確率(事前確率)をP(A)、事象Bが起こる確率(事前確率)をP(B)、事象AとBが同時に起こる確率をP(A,B)とする。また、事象Aが起きたことを前提として事象Bが起こる確率(条件付確率)をP(A\|B)、事象Bが起きたことを前提に事象Aが起こる確率(条件付確率)をP(B\|A)とする。そのとき、

$$P(A|B) = \frac{P(A,B)}{P(B)} = \frac{P(A)P(B|A)}{P(A)P(B|A) + P(\overline{A})P(B|\overline{A})}$$

が成立する。ここで、$\overline{A}$とは、事象Aが起こらないことを意味し、$P\left( \overline{A} \right) = 1 - P(A)$である。ベイズ・ルールに従った推論をすることの重要性、および人々の多くがベイズ推論を行えていないことにつき、スティーブン・ピンカー(橘明美訳)『人はどこまで合理的か(上)』(草思社、2022年)5章で解説されている。
。ベイズ・ルールに従った推論(ベイズ推論)は、全ての知的な分析の基礎だと思います。科学的な分析はもちろんそうですが、倫理学のような価値判断にとっても、ベイズ推論は重要です。ベイズ・ルールは、文系数学だけやっている人だと修得していないことがあり、そこに限界みたいなところを感じることが実際にあります。¶077

本当は文系、理系問わず知っていなければならない数学は必ずあるはずですが、日本は少し文理の区別というのが大き過ぎるというか、極端になっているところがあります。ただ、そうは言っても基本的な考え方を知ってもらえないといけないと思うので、なるべく高度な数学は使わないで説明するようにしています。それについては、先生は割と容赦なく数学をお使いになるなと思っているのですが。もちろん、厳密な理解のためには、数学は不可欠であり、その辺りについて、私もどのように学生に教えるかで悩むことはあります。¶078

草野確かに、私には昔から数学フェチなところがありまして33)草野が数学fetishism(つまり、数学に対する物神的崇拝)とも言われかねない思考癖を抱くに至ったいきさつについては、草野耕一『未央の夢――ある国際弁護士の青春』(商事法務、2012年)の1章と2章を参照されたい。、自分でも、「厳密性にこだわり過ぎている」と反省することが少なくありません(笑)。¶079

ちなみに、ベイズの定理の論理的前提である主観確率という概念は、むしろ理系の人こそが誤解しがちな概念です。理系の人は、確率の意味に関する哲学的考察を省略して、コロモゴロフの公理論的な確率論34)ロシアの数学者Andrey Nikolaevich Kolmogorovは、確率に関する意味論を「棚上げ」して確率を純粋に公理論的な体系として記述することに努めた。しか学んでいないために、客観確率と主観確率の違いを意識しないで議論を進めがちだからです。先日も、数学科出身のインベストメントバンカーが、「被告人が被害者を本当に殺したか否かは過去の事実の真偽にかかわる問題であるから、そのことを確率論的に論ずること自体がおかしい」と言っているのを聞いてびっくりしました。確かに、「人を殺したか否か」は歴史的には既に確定していることですから、殺したという事実が正しいことの客観確率は100%か0%かの2つに1つしかあり得ません。しかしながら、ベイズの定理の前提である主観確率とは、ある事実が正しいと思う「信念の度合い(degree of belief)」の数量的表現にほかならず35)信念の度合いをいかに数量化すれば公理論的な確率論の諸法則が主観確率にも当てはまり得るかについては、『数理法務のすすめ』1章の解説を参照されたい。、したがって、「被告人は、90%以上の(主観)確率で被害者を殺している」という主張は合理的な意味を持っています。¶080

ですから、文系に偏した人が理系の知識を欠いていることが問題であるのと同様に理系に偏した人が文系の知識、特に哲学を知らないことも問題であって、やはり文理両道の道こそが未来を担う法律家の歩むべき道ではないでしょうか。¶081

田中そうですね。¶082

Ⅷ 経済分析の利用と法律学

田中数学的な厳密さもそうですけども、私が経済分析に特に惹かれたのは、前提を明示するという考え方です。法律学の議論では、どういう前提に立って議論しているのかが分からないことがよくあります。さらに言うと、どういう価値判断基準に立っているのかもよく分からないものですから、具体的な法律問題について法律家や法学者の言っていることを聞いて、「どうもこの人はこういう前提に立っているみたいだ」とか、「こういう価値判断基準を取っているみたいだ」といったことがうかがえるだけ、ということが少なくないのですね。¶083

経済分析が法学の発展に役立つと思う点は、前提を明示して、この前提の下であればこういう結論が出るということをはっきりさせて議論をしていることです。もちろん、その際の前提は、せいぜい現実社会の近似であるにすぎませんから、経済分析を実際に法律論に採り入れるに際しては、その前提が現実社会のあり方をどこまで近似しているかの吟味が必要になります。この点が、経済分析を法学に活用していくときの留意点ですし、また、その吟味をするところに、法律家・法学者の役割も見出せると考えています。私も、しょせんは法学者として判決などを読んで得た知識にすぎないとはいえ、法律問題がかかわる現実の事件についてある程度の知見を持っています。そこで、経済分析で採用されている前提が、現実をどこまで近似しているかについてある程度の知見に基づく判断は下せる、その辺りに、法学者の存在意義があるだろうと思っています。¶084

草野前提を明示することによって議論を明晰なものにすることは大変重要です。カール・ポパー36)Karl Raimund Popper(1902-1994)は、オーストリア出身の哲学者。代表作である『歴史主義の貧困(The poverty of historicism)』と『開かれた社会とその敵(The open society and its enemies)』は分析哲学を理解する上で必読の古典である。の言葉を借りて敷衍すると、フォールシフィアビリティ(falsifiability:反証可能性)が重要だということです。主張の前提が明示されなければ、その主張の誤りを指摘することができない。そして、誤りであることを論証することのできない、つまりフォールシフィアビリティのない命題は、学問的には(したがって、法廷の場においても)意味を持ち得ません(ちなみに、ポパーによれば、プラトンのイデア論やヘーゲルの弁証法やマルクスの史的唯物論は、いずれも反証可能性が著しく低い言説です)。そして、伝統的な法律学の世界には反証可能性が低い言説が跳梁跋扈していることは否定し難い事実です。ただし、これを全否定してしまうと、法律学の基盤が失われてしまいます。そこで、伝統的な法律論もできる限り尊重した上で特に使い勝手の悪いところから始めて、少しずつ論理を新しいものに切り変えていく、そういう営みが私たちに託されている課題なのではないでしょうか。¶085

田中そうですね。もう1つ、法と経済学に私が惹かれた要因として、特にこの学問分野の創始者(ファウンディング・ファーザーズ)たちが、経済学だけでなく法学の伝統的な議論にも通じていたことがあると考えています。リチャード・ポズナー37)Richard A. Posner (1939-). アメリカの法学者、裁判官。法学に経済分析を導入した多数の業績を公表。主著に、The Economics of Justice (2nd ed., Harvard University Press, 1983); The Problems of Jurisprudence (Harvard University Press, 1990); Economic analysis of law (8th ed., Aspen Publishers, 2011)。ポズナーが提唱したリーガル・プラグマティズムについて、前掲注17参照。は、もともと法律家だから当然ですけれども、ロナルド・コース38)Ronald H. Coase (1910-2013). イギリス生まれのアメリカの経済学者。1991年にノーベル経済学賞を受賞。主著に、The Firm, the Market, and the Law (The University of Chicago Press, 1988)[ロナルド・H・コース(宮沢健一=後藤晃=藤垣芳文訳)『企業・市場・法』(東洋経済新報社、1992年)]がある。も、イギリスの判例法なども学んでいるようです。コースの有名な「社会的費用の問題」という1960年の論文を読んでも、コモンローの裁判所が、外部性の問題をこういうふうに解決しているのだということを、判決を読んで分析しています39)Ronald H. Coase, “The Problem of Social Cost,” The Journal of Law and Economics, Vol.3, (1960), pp.1-44 (pp.8-15) (宮沢ほか訳・前掲注38)121頁~130頁).¶086

それから、個人の合理性を前提にする古典的な経済学のモデルと比較した場合、裁判所は、具体的な事案を解決する中で、人間の合理性の限界のようなことについて豊かな知見を蓄積し、それに対応する法理も形成してきたと思います。それは、例えば信義誠実の原則(信義則)とかですね。あれは、人間は先々のことについて、今、明示の意思表示をして契約に書くほどには特定できないけれども、しかし、何か期待とか了解みたいものを持っていて、それを前提にして人間社会は動いているところがある。そこで、事後的に裁判所が、こちらの当事者はこういう期待を持っていて、当時の状況ではそういう期待を抱くことはもっともであるから、あなたがそれを裏切ることは信義に反するという形で事件を解決していく。¶087

草野なるほど。¶088

田中最近出た法と経済学の本でも、英米法では、エクイティ(衡平法)がそういう役割を果たしてきたという認識の下に、それを経済学のモデルを用いて分析したものがあります40)Kenneth Ayotte, Ezra Friedman and Henry E. Smith, A Safety Valve Model of Equity as Anti-opportunism (Cambridge University Press, 2023).。私は、その本で分析されているエクイティの役割を日本法で果たしているものは、信義則だろうと思います。長い年月を生き抜いてきた法理は、人類の英知のようなものが含まれているので、そこのところをきちんと可視化するというか、言語化して後世に伝えていくことができればいいと思います。¶089

草野伝統的な法律学も捨てたものではないということですね。¶090

田中そうですね。私の実感では、いかにも難しい法律学の議論には大した価値はないけれど、裁判所が積み上げてきた判決の中には価値があるということが多いですね。¶091

草野全く同感です。ちなみに、これは余談といえば余談ですが、法律家の共有知の中にはるある種の「知恵(wisdom)」が多々含まれているようであり、それを明示的に分析しているという点で、私はドゥオーキンの『Law’s Empire(法の帝国)』にとても惹かれています。ただし、難しくてなかなか読めないのですが、この座談会の最終回を迎えるまでには完読して(最終回のゲストとして来ていただく予定の小川先生は研究活動をドゥオーキンから始めたと聞いています)、ドゥオーキンの諸概念を使いながら話ができるようになれるといいなと思っています。是非先生にも読んでもらって、ドゥオーキンを私たちの共有知にいたしませんか。¶092

田中そうですね。ただし、ドゥオーキンは『法の帝国』以降も、それこそ死の直前まで執筆を続けていたようですので、どこまで彼の思想を勉強すればよいかと思っているところです(笑)。¶093

草野それは、ちょっと困りましたね(笑)。¶094

Ⅸ 実務の視点

田中用意したものでは最後の話題になります。「実務の視点」ということについてです。今回、先生の個別意見を全部読んでみて、福利主義とか関係諸科学の活用のような、多くの人に既に知られているであろう特徴だけではなくて、弁護士として企業法実務に長く従事されてきたご経験が活かされている意見も目立っていたと思います。¶095

具体的には、例えば公認会計士協会決定の開示差止め事件(最二小判令和2・11・27判時2487号28頁)(⇨判例9)では、原判決が期中キャッシュフローについて監査をする必要性を認識していないことを批判されています。また、民事再生手続の再生計画の認可事件(最二小決令和3・12・22裁判所Web〔令和3年(許)第4号〕)(⇨判例13)では、管財人が再生計画案を合意まで持っていくのには非常な困難があるのだということを書かれていて、これについては実務の知見が活かされていると思いました。¶096

そこで、裁判官にとっての実務経験の重要性について、まずはご教示いただければと思います。¶097

草野詳しく判決を読んでいただいて、誠にありがとうございます。おっしゃるとおり、今、ご指摘あった2つの案件は、私の実務経験を多少なりとも活かすことができました。他方において、私の専門分野であるM&A法の案件で意見を述べる機会が一度もなかったことは残念でした。最高裁判事は担当する案件をコントロールできませんので、その点は仕方ないのですが、他方において、扱う事件は国際法から知財法から家事法に至るまで、あらゆる分野の法律に及びますから、経験を活かすと言ってもおのずからそこには限界があります。しかしながら、1つの専門職の仕事しかしたことがないことと、ある程度多様な経験があることの間には、創造的思考の裾野を広げるという点で大きな違いがあると思います(私の場合には、国際弁護士としての経験に加えて、社外役員や顧問弁護士としていくつかの会社の経営に携わった経験と多年にわたり大学で教鞭をとった経験も創造的思考力の強化に役立ったように思います)。¶098

ですから、読売新聞のインタビューでも述べましたけれども、大志を抱く法律家が、裁判官、弁護士、検事、大学の研究者、それから司法試験と国家総合職の公務員試験をうまく合体させることができるとすれば、行政官も含めて、様々なキャリアライフを経験できるようにすることが日本社会全体にとって重要であり、そのような経験を積んだ人の中から連綿として最高裁判事が選ばれていってほしいと願う次第です。¶099

ちなみに、この点は、最高裁判事ばかりではなく調査官にも言えることでして、調査官の大多数が裁判官の経験しかない人であることは、現行の制度が画竜点睛を欠いている点であると思います。もっと具体的に言いますと、最優秀な大学研究者の方々を特別調査官に採用したならば画期的な判決がどんどん生まれていくのではないでしょうか。私の場合でも、例えば田中先生が特別調査官になってくれていたとしたら、もっと優れた判決を書けたように思います(笑)。¶100

さらに言えば、裁判官の方々に対しては、他のキャリアの経験もさることながら、経済学も含めて、法の数理分析の技法を学ぶ機会を確保する必要があると思います。この点は日本の法曹教育の宿痾とも言えることですが、要するに優秀な学生は、最小限の年数で司法試験に受かることを目指します。そのことが法曹としてのキャリアを始めるに当たっての1つのステイタスとなることは否定し難い事実ですから、そのような志向を嘆いてみたところで始まりません。問題は、この結果、優秀な学生ほど、法曹のキャリアライフには重要ではあるものの司法試験には役立たない知識の習得を割愛して法律家としての人生を歩み始めてしまうことにあります(先ほど、法の数理分析は司法試験の教養試験科目にしたほうが良いと述べたのはこのためです)。それでも、弁護士、特に大手事務所に入った弁護士は、新人教育の一環としてこれらの知識を勉強させられますので、そこで教養の欠如をある程度キャッチアップできますが、裁判官の場合にはその機会がありません。ですから、司法試験合格者を多数輩出している大学が主体となって、裁判官たちが学びながらそのような知識を習得できる(しかも、どうせ習得するなら、博士号の取得も目指せる高度なレベルの)教育課程を作っていただきたいと思う次第です。¶101

田中ありがとうございます。近年では、弁護士としてキャリアを積まれた方が博士課程に来られて、博士論文を書くケースも見られるようになりました。ただ、法曹資格を得た人がさらに勉強される場として、日本の大学が、アメリカとかイギリスの大学・ロースクールに負けてしまっている現実があります。本当は日本語で勉強したほうが、必要な知見を低コストで学べるわけですから、日本の大学に来てほしいと思うところもありまして、その点では日本の大学も、法曹実務家になられた人にとっても魅力的になるように、自己改革しなければならないなと思っております。¶102

Ⅹ 最後に

田中最後に、今回の企画を始めるに当たり、ご意見があればお聞かせください。¶103

草野はい。この座談会は、その素材となっている私の個別意見も含めて、1人でも多くの法律家、特に現役の裁判官の皆さまに読んでもらいたいと思っているのですが、キャリア裁判官の方々が私の個別意見を読まれると、「なぜこんな仰々しいことまで言うのだろう。判決は簡潔をもって旨とすべきものではないのか」という疑問を抱かれるかもしれません。私自身も、先輩の最高裁判事の方々から、「草野裁判官の判決起案に寄せる情熱は多とするものの、いかんせん文章が長く、しかも、刺激的である。文章を長く刺激的なものにすることは、それだけ心なき読者に難癖をつけられるリスクを高めることにつながり、草野裁判官自身のためにもならないのではないか」という趣旨のご助言をいただいたことが多々ありました(小声で言いますと、このようなご助言は、刑事裁判や法務省勤務の経験が長かった諸先輩からいただくことが多かった気がします)。司法を取り巻く現実世界の厳しさを踏まえて言えば、このご助言は正鵠を射たものであり、私自身もそのような配慮の下に個別意見の発表を見送ったケースもありました。しかしながら、個別意見を発表する以上は譲れない一線というものが私にはありました、その一線とは、個別意見は国民に希望を与えるものでなくてはならない、という点です。司法の伝統に則って書かれる多数意見はどうしても紋切り型のものになりがちです。確かに、紋切り型の判決文には、「無用な批判を避け得る」、「司法の尊厳を印象付け得る」、「文学的才能が豊かでない裁判官でも起案できる」、「個性のない文章のほうが多数の裁判官の意見の一致を得やすい」、「法令解釈は三段論法のように単純なものであるかのごとき外観を作出することにより、『司法が立法権を侵す』ことにセンシティブなある種の民主主義擁護論者の批判を抑制できる」などのプラグマティックな利点がありますが、その反面として、国民の司法に対する期待を萎えさせるような冷え冷えとした気配が漂いがちです。そして、判決がこのような文体の物ばかりであるとすれば、到底私が望む司法立国の構築は果たし難いように思えます(司法の働きを通して、豊かで公正で寛容な社会を構築する営みのことを、私は、「司法立国」と呼んでいます)。このジレンマを克服するものこそが個別意見である、というのが私の考えです。個別意見では、それが多数意見に賛成するものであるか反対するものであるかにかかわらず、裁判官が国民の福利を(あるいは、もっと一般的に、社会正義を)真摯に考えて判決を起案していることを明らかにすることができます。そして、そのような個別意見を伴う判決は司法に対する国民の信頼を高め、司法の働きを通じて我が国社会がさらに善き社会となっていくという希望を国民にもたらすことができるのではないでしょうか。そして、個別意見がこの役割を適切に果たすためには、文章がある程度冗長となったり刺激的になったりすることはやむを得ないことであると私は考えています。ですから、私の個別意見をお読みいただく際には、文章の長さや表現の穏当さにはあまりとらわれず、総じて国民に希望を与えるものとなっているか、なっていないとすれば、どこをどのように改めたらよかったのか、などの点を考えながら読んでいただければ有り難いと思います。¶104

田中このたびはありがとうございました。取りあえず、初回はこれでお開きとさせていただきます。¶105

草野ありがとうございました。¶106