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田中それでは、座談会を始めさせていただきます。私は東京大学社会科学研究所教授の田中亘と申します。よろしくお願いいたします。¶001

草野草野耕一です。よろしくお願いします。¶002

田中草野耕一先生は、2019年2月13日に最高裁判所判事に就任され、2025年3月21日に退官されるまで、最高裁判所第二小法廷で事件を担当され、多数の個別意見を執筆してこられました。今回の企画では、草野先生が最高裁判事として執筆された個別意見25件の全てについて、関係分野の研究者を交えて検討し、それが実務上または理論上持つ意義を明らかにしたいと考えています。今回は、その第1回「総論」ということで、草野先生と私の対談形式で、企画の趣旨を説明するとともに、司法の役割や法解釈の方法といった基本的な論点について、草野先生のお考えをうかがいたいと思います。その後、数回にわたって、草野先生と私のほか、各法分野の研究者を加えた座談会形式で、個別意見について詳しく検討していきます。最終回では、基礎法学の研究者を招いて、草野耕一裁判官の法解釈方法論について検討する予定です。¶003

草野耕一判事個別意見付き判例一覧(年月日順)

  1. 1最二小判令和元・9・6民集73巻4号419頁(代位取得した損害賠償請求権の遅延損害金の起算日)
  2. 2最二小判令和元・9・13判時2434号16頁(諫早湾潮受堤防排水門の開門に係る請求異議)
  3. 3最二小判令和2・2・28民集74巻2号106頁(被用者からの逆求償)
  4. 4最二小判令和2・3・6民集74巻3号149頁(中間省略登記と司法書士の注意義務違反)
  5. 5最二小決令和2・9・16刑集74巻6号581頁(タトゥー医師法違反事件)
  6. 6最二小判令和2・10・9民集74巻7号1807頁(家裁調査官論文執筆とプライバシー侵害)
  7. 7最二小判令和2・10・23判時2481号9頁(参議院選挙比例代表特定枠制度の合憲性)
  8. 8最大判令和2・11・18民集74巻8号2111頁(令和元年参議院選挙議員定数配分違憲訴訟)
  9. 9最二小判令和2・11・27判時2487号28頁(公認会計士協会決定の開示差止)
  10. 10最二小決令和3・4・14民集75巻4号1001頁(弁護士職務基本規程と訴訟行為)
  11. 11最大決令和3・6・23判時2501号3頁(夫婦同氏制違憲訴訟)
  12. 12最二小判令和3・7・19判時2514号13頁(会計限定監査役の任務懈怠)
  13. 13最二小決令和3・12・22裁判所Web〔令和3年(許)第4号〕(再生計画決議不認可事件)
  14. 14最二小判令和4・2・7民集76巻2号101頁(あはき師法違憲訴訟)
  15. 15最二小判令和4・6・17民集76巻5号955頁(東電福島第一原発事故国家賠償訴訟)
  16. 16最二小判令和4・6・24民集76巻5号1170頁(SNS逮捕事実投稿削除請求訴訟)
  17. 17最二小判令和5・3・10判時2571号95頁(固定残業代制度事件)
  18. 18最大判令和5・10・18民集77巻7号1654頁(令和4年参議院選挙議員定数配分違憲訴訟)
  19. 19最大決令和5・10・25民集77巻7号1792頁(性同一性障害者特例法違憲訴訟)
  20. 20最二小判令和5・11・6民集77巻8号1933頁(タックス・ヘイブン対策税制)
  21. 21最二小判令和5・11・27民集77巻8号2188頁(物上代位による賃料債権差押えと相殺の優劣)
  22. 22最大判令和6・7・3民集78巻3号382頁(旧優生保護法違憲訴訟)
  23. 23最二小決令和6・10・16裁判所Web・裁時1850号1頁(刑事取調映像提出命令)
  24. 24最二小判令和7・2・17裁判所Web・裁時1858号1頁(非木造家屋への固定資産課税)
  25. 25最二小決令和7・3・5裁判所Web〔令和3年(あ)第246号〕(東電福島第一原発事故業務上過失致死傷事件)

Ⅰ タイトルに込めた意味――倫理と経済が交わる場としての司法

田中今回の座談会のタイトルは、『倫理と経済が交わる場としての司法』ということですが、これは草野先生のご提案で付けられたものです。このタイトルに込められた意味を教えてください。¶004

草野はい。司法が用いる論理は、一般に法律論と呼ばれます。では、法律論とは何かと言うと、結局のところ、それは、人類がローマ法以来2000年かけて築き上げてきた法律家の間の共有知に基づいてなされる立論のことであり、法律学の主たる役割は、かかる共有知を発見し、体系化し、発展させることであると思います。なぜローマ法とだけ言ってメソポタミアのハンムラビ法典や古代中国の法家思想から説き起こさないかということについては、いずれ機会があればお話ししたいと思いますが、いずれにせよ、法律家間の共有知が司法という営みを支える知の基盤となっていることは、何人にも異論のないことだと思います。¶005

しかしながら、法律家の共有知の学問である法律学は、他の学問と無関係に生成し発展するものではありません。各時代の法律家がどれだけ自覚的に行動してきたかは別論としましても、法律学が時代から取り残されることなく発展し続けるためには、もっと刺激的な言い方をすれば、法律学がガラパゴス化しないためには、各時代において目覚ましい発展を遂げてきた隣接諸学問の知見を既存の法律論の中に取り入れ続けていくことが必要でしょう。そして、現代社会の法律学にとって焦眉の課題は、経済学(特にミクロ経済学と統計学)と、分析哲学の洗礼を経て発展してきた現代倫理学の知見を、法律学という伝統的な器の中に、いかに巧みに盛り付けるかにあるというのが私の考えでして、この思いを込めて、今回のタイトルを選んだ次第です。ちなみに、このタイトルの英語表記を示す機会があるとすれば、“Judiciary as the crossroad of ethics and economy”としていただきたいと思います。¶006

田中ありがとうございます。私は、以前から草野先生のご著書で勉強させていただいており、『数理法務のすすめ』(有斐閣、2016年)については、書評もさせていただきました1)田中亘「なぜ法律家は数理的分析を学ぶべきなのか」書斎の窓650号(2017年)同『企業法学の方法』(東京大学出版会、2024年)所収。。その際は、法律学の発展にとって隣接諸科学の知見を活かしていくことがいかに大事かということについても書きました。¶007

それに加えて、実は最近、私も、とみに倫理学も知らなければならないと思うようになりました。隣接諸科学は、事象の解明に役立つという意味で法律学にとって重要ですが、法律学は、何が望ましいかという価値の問題も考える必要があります。私は、もともと帰結主義的な道徳哲学に関心を持っていましたが、ここ5年くらい少しインテンシブに勉強して、昨年は本を出したりしております2)田中・前掲注1)『企業法学の方法』、特にその[序論]「企業法学の方法」(1頁~37頁)参照。。ですので、先生のおっしゃっていることには共感するところが大きいです。¶008

Ⅱ 具体的な事件に即して論じる意味

田中今回は企画の初回ですので、草野先生と私との対談形式で総論的な話をしますし、それから最終回にも、「草野最高裁判事の法解釈論」と題して、総論的な話をしたいと思います。ただ、それ以外の回は、全て、草野先生が個別意見を書かれた具体的な事件について、専門分野の研究者を交えた座談会形式で議論する形を取ります。このように、個別具体的な事件に即して議論するという方式も、先生のご発案によるものですが、その意義について教示いただければと思います。¶009

草野最大の理由は、解釈論の重要性は、個別の案件を通じてでなければ語ることができないと考えるからです。このことを端的に示す例として、ここで、大阪高裁の令和3年12月9日判決の事件(大阪高判令和3・12・9民集77巻3号814頁参照)を取り上げてみたいと思います。¶010

この事件では、口頭弁論に関与していない裁判官が判決を言い渡した場合に(この場合、敗訴当事者には民訴法338条1項の規定によって再審の申立てが認められます)全部勝訴した原告に控訴の利益があるか否かが争われました。大阪高裁は控訴する利益の存在を否定しましたが、最高裁はこの判決を破棄して原告には控訴する利益がある旨の判決を言い渡しました。¶011

さて、ここでご注目いただきたいたいのは、控訴の利益を否定した大阪高裁のロジックです。なぜ大阪高裁は原告に控訴の利益はないと言ったのか、その論旨を要約してみると、第1に、この事件では、被告が不出頭なまま一審が終結していますので、再審の申立てがなされる可能性自体がそもそも低く、第2に、仮に再審がなされたとしても、原告の主張に理由があるのであれば、原告は再審においても敗訴することはないのだから、原告に不利益が生じることはなく、第3に、仮に万が一、再審で原告が敗訴するとすれば、それはもともと原告の訴えに根拠がなかったからなのであるから、やはり原告には控訴して一審判決の破棄を求める利益があるとは言えないというのです。このロジックを読者の皆さまは、どうお感じになるでしょうか。¶012

抽象論として言えば、この論理は水も漏らさぬ完璧なもののように聞こえるかもしれません。しかしながら、この判決のロジックは、私に言わせれば完璧に間違っています。なぜならば、この事件は不動産の所有権の帰属をめぐる事件だったのですが、不動産の所有権に再審事由という瑕疵が付着している限り、その不動産をまともな価格で売却することは到底できないからです。これを要するに、この事件の原告は、一審裁判所が口頭弁論に関与しない裁判官に判決の言い渡しをさせるという誤りを犯したがために、せっかく裁判に勝訴したにもかかわらず、それによって取得した不動産に関して市場価格の暴落という重大な不利益を被っており、この点の瑕疵を除去してもらうために控訴する利益が原告にあることは明白であるように思えます。¶013

ところで、以上の説明を法律家以外の知識人がお聞きになったら、恐らくのところ、次のような感想を抱くのではないでしょうか。すなわち、「高裁の論理は、『パンがないならケーキを食べればいいじゃないの』と言ったとされるマリー・アントワネットの都市伝説をほうふつさせるほど非常識なものだ。高裁の裁判官ともあろうお方が、なぜそんなことを言ったのだろう」と。しかしながら、私に言わせれば、このような誤りは、なまじ法律の玄人であるがゆえに犯してしまったものであり、そこに伝統的な法律論に内在する恐るべき落とし穴、陥穽があるように思えます。その陥穽の実態については、後で詳しくお話ししたいと思いますが、ここまでの説明によって、解釈論の良否は、抽象的な議論によってではなく、個別案件を通じてでなければ説得的に語れないということについて、読者の皆さまもおおむね納得していただけたのではないでしょうか。¶014

なお、この座談会で取り上げる解釈論を私が最高裁判事として記した個別意見の内容に限定いたしました理由は、それが、具体的な案件において示された解釈論を、私が責任を持って、しかも、裁判官同士の評議の機微に触れることなく語り得る最適な素材であると考えたからです。¶015

田中この判決は、座談会の前に草野先生にご紹介いただきました。これを読んで思ったことは、民事訴訟法の問題に限らず、法律論では、よく法律上の利益という言葉を使います。法律上の利益は事実上の利益とは違う、事実上の利益があっても法律上の利益がなければ、訴えとか再審申立てとかはできないというように使うわけです。これは、裁判制度という、国がコストをかけて運営している制度の利用を認めるかというスクリーニング機能を持っているので、ありとあらゆる利益が法律上の利益ではないという考え方自体は間違っていないと思います。ただ、そういう言葉遣いが独り歩きしてしまって、この利益はいかに重要ではあっても事実上の利益だから、訴えの利益があるとは言えないとか、あるいは再審の利益を構成しないという形で、この概念の区別が独り歩きしていくという問題点があるのではないかと思いました。ご紹介くださった事件については、たとえ原告が勝訴判決を得ていたとしても、それに再審事由がついている限り、将来その判決が覆ってしまうおそれがあるわけですから、外部の者から見たときに、原告の権利が明確に確定されているとは言えません。それで、例えば原告がその不動産を売ろうとした場合に、そういう不確実性を反映して、不動産の評価額が下がってしまうことがあり得ます。こういった点を裁判所としても適切に考慮できるように、法律上の利益という概念を構成する必要があると思います。¶016

この判決は、法律概念が独り歩きしてしまうことの怖さを示していると思います。そういう独り歩きの怖さは、確かにご指摘のように、具体的な事案がないと示すことは難しい。抽象論だけで批判し合っても仕方ないところがあります。今回の企画で、具体的な事件の検討を通じて、法律学の重要問題を明らかにしていければと考えております。¶017

草野確かに法律上の利益とそれ以外の利益を峻別することは、司法の経済性という観点から有意義と言えなくもありません。しかし、本件の高裁判決がそのような垢抜けした価値判断の下に控訴の利益という概念を限定的に解釈したとは思えません(この事件で原告の控訴を認めないことに経済的合理性があるとは到底考えられません)。では、なぜ大阪高裁はあのようにトライアンファント(triumphant)な語調の下に控訴を棄却してしまったのか。その理由は、先ほど話しかけた法律論に内在する陥穽の問題に帰着するように思えます。¶018

大上段に構えて話を始めるのは私の悪い癖ですが、ここではその点をお許しいただくとして、少しアカデミックな話から始めたいと思います。昔の古代人の洞窟壁画、例えばアルタミラやラスコーの壁画に描かれているものは、一緒に暮らしている人々、特に愛情や崇拝の対象である異性、それから、飼っている家畜や格闘した動物などであって、本来、人間が最も美の対象と感じるはずであるところの自然というものはほとんど描かれていません。なぜ自然が描かれていないのかということについて、以前に文化人類学者の方に意見を聞いたことがあるのですが、その方が言うには、古代人にとって自然は恐怖や憎しみの対象とはなり得ても、芸術的鑑賞の対象物とはなり得なかったのではないかというのです。それはなぜかと言えば、例えば、春の曙とか、秋の夕暮れとか、様々な自然現象に対して、それを表す言葉ないし概念がなければ、それを理解し、それを分析しようという意欲、いわんや、それを芸術的鑑賞の対象としようというモティベーションは湧いてこない。さらに言えば、例えば森に風がどんなに吹いても、森とか、林とか、木とか、そういう自然を構成している個別の素材に対する名称がなければ、風景全体がおぞましいものとして漠然と目に入るだけであって、それを知的に理解することはできない。要するに、概念があって初めて現象が理解できるというのです。¶019

ちなみに、ジャン・ポール・サルトル3) Jean-Paul Charles Aymard Sartre(1905-1980). フランスの哲学者、小説家、劇作家。「(人間の)実存は本質に先行する」という彼の言葉は、実存主義哲学の箴言として有名である。に『嘔吐』という小説があるのですが、この作品では主人公のロカンタンが、奇妙な色彩のネクタイや大きな木の根っこを見て吐き気を催すというところから話が始まります。当初、ロカンタンは、なぜ吐き気を催すのか自分でも分からないのですが、次第にその理由が明らかになっていきます。要するに、あらゆる事物に対して、人がその「存在(l’existence)」を知的に理解するためにはその事物の「本質(l’essence)」を知らねばならない。そこで、本質が何であるかが分からないままにある事物の存在が人の知覚の中に飛び込んできた場合、人はその事物に対してある種のおぞましさを覚えて嘔吐を催すというわけです(なお、上記の文脈に限って言えば、サルトルの言うところの「本質」は、これを現代フランス哲学で言うところの「構造(la structure)」と言い直したほうが分かりやすいかもしれません)。¶020

さて、今お話ししました2つのアネクドート(逸話)を法律論の世界に当てはめると何が言えるでしょうか。恐らくのところ、それは、任意の事象を法律論として語るためには、その事象を法律論、つまり法律家の共有知を基盤とする論法の中に取り込むための専門用語が必要だということではないでしょうか。そして、そのような専門用語が存在しない場合、法の専門家を自認する裁判官は、その事象から目をそらしてしまう、つまり、そのような事象はあたかも存在しないかのごとくに論を進めてしまう傾向を免れない。これが伝統的法律論に潜む陥穽だと思うのです。¶021

例えば、アメリカでは統一商事法典(Uniform Commercial Code)の中に「マーチャンタビリティ(merchantability:商品適格性)」という用語があって4)アメリカ統一商事法典2-314参照。、商品が市場で取引されるために通常備えているべき品質や性能を指す言葉として使われています。そこで、日本の民法にもそのような概念があったならば、先ほどの大阪高裁の裁判官も、原告は再審事由の付着した判決を受けたことにより対象不動産に関してマーチャンタビリティの喪失という不利益を受けたと認識できたかもしれません。¶022

つまり概念がないから事実が(この事案においては「不利益」が)認識できない。これが伝統的な法律論の弱点であって、この弱点を補うための処方箋が、法の隣接諸学問、特に経済学のジャーゴン(jargon:専門用語)を「法律外来語」として法律論の中に組み入れていくことだと思うのです。先ほどの事案で言えば、「市場価格」という概念、これはわざわざ専門用語と言うまでもないほどに人口に膾炙された言葉ですけれども、十分に精緻な概念であり(この点が法律外来語を法律論に取り込むための必要条件でしょう)、この概念を使えば、マーチャンタビリティという言葉のない我が国の民法の下でも原告が受けている不利益を法律論の中に正しく位置付けることができる。¶023

ここに、法の隣接諸学問、特に経済学を法律家が学ぶことの有用性の1つの根拠があると思う次第です。なお、法律家が経済学を学ぶことが有益である理由は上記の点以外にも多々ありますが、それらの点についてはこの後追々に話していきたいと思います。¶024

田中それは面白いですね。マーチャンタビリティと聞いて思い付いたのは、刑法の判例で、食べ物を入れる容器に尿をかけたら、器物損壊になるという判例がありますよね5)大判明治42・4・16刑録15輯452頁。それは、洗えば衛生上は何も問題ないはずですが、それでもやはり、尿をかけられたと聞いたら、みんなその器は使えないでしょう。それはマーチャンタビリティそのものですね。そういうふうに、各法分野にばらばらに存在しているように見える法理には、実は普遍的な、人類の知恵のようなものが込められています。そういう各法理が持っている機能について適切に理解すれば、それを別の場面、例えば民事訴訟法における申立ての利益の解釈にも活かすことができると思います。¶025

草野刑法学、特に刑法各論上の諸概念は具体的な事実を外延とするものが多いので、隣接諸学問上の概念を借用しなくても、伝統的な法律上の概念の内包6)集合論的に言うと、概念の外延とは、当該概念を構成する要素の集合のことであり、内包とはそれらの要素に共通する(しかも、それらの要素のみに共通する)性質のことである。例えば、偶数という概念の外延は、2、4、6、8、……と続く整数の集合であり、内包は、「2の倍数であること」である。をわずかに修正することによって適切な解釈論を展開できる場合が多いのです。刑法各論上の概念は事実に対して開かれていると言ってもよいかもしれません。ですから、現代社会に生起する様々な事象に対しても、法律上の概念、例えば、器物損壊という概念の内包を若干修正することによって現実に即した解釈論を展開する余地がある。これに対して、民法学上の概念には外延が多層構造になっている抽象的なものが多くあります(「控訴の利益」という概念はその典型です)。その場合には、経済学その他の諸学問上の概念を補ってあげないと適切な解釈論を展開することが難しい場合が多いように思えます。¶026

田中民法学でも、特に最近は、法律概念は事実に対して開かれていなければいけないと考える人もいるので、この後の回にお呼びして、話をしたいと思います。¶027

Ⅲ 法解釈の基本理念

田中次に、判決を書くときに取っておられた基本的な理念についてお聞きしたいと思います。先生が最高裁判事を退官された直後に公表された読売新聞オンラインのインタビュー記事の中で、より良い社会をつくることを目指して解釈する帰結主義、国民一人一人が良き人生を実現できるかどうか、それを増やせているかどうかという基準をもとに判断する福利主義7)帰結主義(consequentialism)とは、社会的選択(司法の下す裁判もその1つ)の望ましさは、その選択のもたらす帰結の望ましさによって判定する立場を言い、福利主義(welfarism)とは、帰結主義の中でも、帰結の望ましさの判定をもっぱら個人の福利(well-being)によって行う立場を言う。これらの概念について、Matthew D. Adler, Measuring Social Welfare : An Introduction (Oxford University Press, 2019), sec.1.2.2参照。なお、welfarismは、厚生主義、または(福利は効用〔utility〕とも呼ばれることから)効用主義と訳されることもあるが(例えば、アマルティア・セン〔大庭健=川本隆史訳〕『合理的な愚か者』〔勁草書房、1989年〕169頁)、本企画では、一貫して福利主義と呼ぶことにする。、そして法の支配の貫徹、以上の3点を理念として判決文を書き続けたと述べておられます8)前最高裁判事が語る『司法立国のすすめ』草野耕一弁護士インタビュー」読売新聞オンライン2025年5月7日付。¶028

草野先生の法解釈の方法論として、より良い社会をつくる法解釈が望ましいという帰結主義を取っていることや、その帰結の望ましさは、個人の福利が増大しているかを基準に判断するという福利主義を取っていることは、最高裁判事への任官前に出された著作、例えば『会社法の正義』(商事法務、2011年)などからうかがえます。また、最高裁判事に任官されてからは、例えば夫婦同氏制違憲訴訟(最大決令和3・6・23判時2501号3頁)(⇨判例11)の反対意見や、タトゥー訴訟(最二小決令和2・9・16刑集74巻6号581頁)(⇨判例5)の補足意見など、福利主義を前面に出した個別意見を多数書かれてきました。そのため、草野先生というと、まず福利主義のイメージを持つ人が多いのではないかと思います。¶029

これに対して、法の支配というのは伝統的な法概念という感じで、これと帰結主義や福利主義とはどういうふうに関係するのか。どうしてこの3つが基本理念になるのだろうと考える人もいるのではないかと思うのですけれども、この3つの理念の関係についてご教示いただけますでしょうか。¶030

草野ご明察のとおり、私が読売のインタビュアーに当初話しましたことは、この記事のものとは若干異なっております。福利の最大化を支える三原則として私が申し上げましたものは、帰結主義(consequentialism)と、福利主義(welfarism)と、そしてもう1つ、集計主義(aggregationism)の3つです。ちなみに、この3つは、ノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センが定式化した功利主義(utilitarianism)の三原則とほぼ一致しています9)セン(Amartya Sen)は、功利主義を構成する基本的な要素として、①社会的選択(法制度の設計もその一つ)の望ましさを、もっぱら、その選択がもたらす帰結の望ましさによって評価する帰結主義(consequentialism)、②帰結の望ましさを、もっぱら個人の福利に関する情報に基づいて評価する福利主義(welfarism. 厚生主義とも訳される)、③個人の福祉に関する情報を、人々の福利の単純な総和(合計)に集約する総和主義(sum-ranking)の3点にまとめている。Amartya Sen and Bernard Williams, “Introduction: Utilitarianism and Beyond,”Amartya Sen and Bernard Williams eds., Utilitarianism and Beyond, pp.1-21(Cambridge University Press, 1982),at pp.3-4[後藤玲子監訳『功利主義をのりこえて : 経済学と哲学の倫理』(ミネルヴァ書房、2019年)4頁~5頁]; Amartya Sen, On Ethics and Economics (B. Blackwell,1987), at p.39[徳永澄憲=松本保美=青山治城訳『経済学の再生:道徳哲学への回帰』(麗澤大学出版会、2002年)66頁~67頁]。¶031

その上で、この三原則とは別に、法の支配の重要性ということもお話ししましたところ、読売のインタビュアーが(ちなみに、この方は、ローマ法の木庭顕先生の論文まで読み込んでおられる非常に博学な方です)、集計主義という概念は分かりづらいので、これを外して、その代わりに「法の支配」を入れて、私の解釈の三指針としたほうが、一般読者には分かりやすいのではないかと助言くださいましたので、それに従った結果ご指摘のような形になったということです。¶032

では、集計主義とは何かと言えば、それは、国民各位の福利を何らかの方法で加法的に集計することによって、福利の最大化を量的に認識可能な概念にしようという試みの総称です。これは、確かに分かりづらい概念であり、その問題点などについては後でお話ししたいと思います。¶033

他方、「法の支配」は、論者によって様々な意味に用いられる言葉ですが、私は、(先ほどの話とも若干重複しますが)、ローマ法以来2000年の歳月をかけて人類が積み上げてきた法律家間の共有知を踏まえて社会的諸問題を解決しようという理念を意味するものとしてこの言葉を使います。そして、この意味における法の支配こそが、司法という営みのレゾン・デートル(raison d'être:存在意義)であると考えています。¶034

私は最高裁判事として過ごした日々の中で、法の支配という理念の重要性を改めて強く感じるようになりました。というのはこういうわけです。まず、私が最高裁判事に就任した当初は、自分では優れた個別意見だと思うものを書いても、それに対して、なかなか調査官たちの納得が得られずに苦慮しました。調査官の納得が得られなくてもかまわないと考える裁判官もいるかもしれません。けれども、私としては、彼ら・彼女らの積極的賛成は得られないまでも、彼ら・彼女らが十分に納得してくれる個別意見でなければ、世に知らしめる価値は乏しいと考えておりましたし、今もそう考えています。¶035

なぜならば、判例と学説を調べ尽くした上で、私の意見をできるだけ説得力のあるものにしようと真摯に考えて議論に付き合ってくれている彼ら・彼女らが納得できないものを、日本の法律家の(大多数とまでは言わないものの)相当多数が納得してくれるはずもなく、日本の法律家の相当多数が納得してくれないことを個別意見で述べても、それは自分の自己満足にはなるかもしれないけども、そのことにさしたる社会的意義があるとは思えない、と考えたからです。かくして、私は、法の支配の守護神とも言うべき調査官たちの納得を得るべく、彼ら・彼女らの意見に虚心坦懐に耳を傾け、できるだけそれと整合性があるような形に個別意見を作り直していくことに彫心鏤骨の努力を尽くすようになりました。これが、法の支配の重要性を肌身に感じたということの実情です。¶036

Ⅳ 法の支配と福利主義、集計主義

田中私も、最近、法の支配は重要だなと思うようになっています。私は、比較法の対象として主にアメリカ法を研究してきたこともあって、アメリカの司法制度は、いろいろとよいところがあるに違いないとこれまで思っていたのですが、それが今、本当に危機的な状況にあるように思えます。特に、憲法に関する最高裁の判断が政治的になってしまって、大統領が、自分の意見を追認してくれる人を最高裁判事にすればよい、そうしたら勝てるというような、ちょっと信じられないくらい危機的な状況にあるように思えます。それがきっかけで、改めて政治に対する法の存在意義、つまり、政治から一線を画して、むき出しの政治に対して制約条件を課すものとしての法ということを強く考えるようになりました。¶037

ただ、その一方で、法がそのように政治に対して制約条件を課すのだとすると、それでは法はなぜそんな価値を持てるのかを考えなければならない。法とはこういうものだから、政治に対して制約条件を課すことができるのだと言えなければならない。それは、一言で言えば、法の「中立性」ということだと思うのですけれども、中立というだけではまだ具体的な問題の解決の指針にならない。それで、もう少し中立性に中身を持たせようとしますと、中立というのは、要は関係する人々の利益を偏頗なく考慮するということではないか。そこから、まず、個人の利益こそが最も重要であるという福利主義が出てきますし、さらに、人々の利益を偏頗なく考慮するのであれば、結局、利益を集計して大きいほうがよいということに、結論としてはなるのではないか。それが集計主義だと思います。¶038