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緒論

1 本連載の趣旨と特性

A. 本連載の趣旨

(a)本連載は、いわゆる「教科書」や「概説書」とはいささか趣を異にする。¶001

筆者は、東京大学在職中、法学部において23回に亙り、講義方式で「刑事訴訟法」の授業を行った。他大学に出講することもあり、10数年それらを重ねるうちに、刑事訴訟法の全体をある程度見渡せるようになり、講義のために作成・集積したノートもかなりの分量になった。¶002

そこで、親しい編集者のお勧めもあり、そろそろ教科書のようなものにめてみようと考え、講義ノートを基に準備に着手したが、いざ一書の形で世に問うことを指向して見直してみると、とてもそれに耐えるものではないことを思い知らされた。その講義ノートは、元々、最初の長期在外研究から帰国した直後に開始した初めての授業のため、僅かの期間に文字どおり自転車操業で、先達の教科書類や著作、数多くの裁判例等を手当たり次第に読みり、その此処彼処から借り集めた記述や知見、情報の断片をパッチワークのように繋ぎ合わせて、毎回の授業にかろうじて間に合わせたもので、明確なコンセプトに基づく堅固な基礎造成や躯体構築もないままえした造作に過ぎず、その後、毎回加筆・補正を重ねてきていたとはいえ、それらも、見かけ上のびを繕うだけの手当でしかなかったからである。¶003

そのため、基礎工事からやり直すべく苦闘するうち、思いがけず、司法制度改革の作業に携わるのを余儀なくされることとなった。その後も、その改革から産み出された法科大学院の運営や教育、その制度全体の検証と見直し、更には研究科・学部や全学の行政事務などに多くの時間を費やす日々が続いたことから、上記の企画は頓挫したまま、歳月が経過してしまった。¶004

(b)もっとも、その歳月は、筆者自身の刑事訴訟法の研究や授業との関係でも、全く無駄だったというわけではない。¶005

第二次大戦終結直後の「戦後改革」に次ぐ大規模な改革であった司法制度改革は、刑事手続についても、裁判員制度の導入や、当事者間の証拠開示を組み込んだ公判前・中間整理手続の整備を始めとする公判の充実・迅速化、被疑者国選弁護制度の新設、検察審査会の権限強化など多くの瞠目すべき変革を創出するものであったが、それらの基本構想作りから具体的制度設計までの全過程に深く携わり、既往の運用実態やその――関与する人や組織の実情を含む――様々な背景事情を間近にかつ深く知るとともに、関連する種々の制度や法令等を幅広く視野に入れ、実務各方面の関係者とも真剣な意見交換を重ねながら、多角的にかつ粘り強く問題を考究する時間を持てたことは、筆者の刑訴法研究にとって豊かな糧をしてくれた。それは、本連載を執筆するうえでも、有形・無形の資源となっている。¶006

それに加えて、法曹養成に特化した高度専門教育機関である法科大学院で新たにソクラティック・メソッド方式の授業に挑戦するため、教材としてのケースブック1)井上ほか・ケースブック刑訴法。を、親しい研究者仲間と集中的で飽くなき議論を重ねて開発したことは、それまで誰も気付かなかったような新たな視点や論点を数多く発見させてくれた。しかも、そのケースブックを用いて法科大学院で行った双方向型の授業における、真摯で学習意欲旺盛な学生のみなさんとの真剣な――時として虚を突くような質問を突きつけられることもあるなど、スリルに富んだ――問答や、それらを不断にフィードバックして授業内容の改良を図る試行錯誤の積み重ねを通じて、基本的な事項などについても、筆者自身の理解を明確で伝達し易いものとする必要を覚知したり、既往の理解ないし説明がむ問題点に気付かされ、根本に立ち返って考え直す契機となったりすることが少なくなかった。¶007

そのような歳月を経て9年振りに法学部で行った講義方式の授業では、それらの経験や考究を踏まえて、構成を組み替えるとともに、幾つかの論点につき突き詰めて考えた結果を披露してみたので、以前とは相当異なった内容となったと思う。¶008

(c)それを最後に講義方式での授業を行う機会はなくなり、歳月が更に経過したが、その最終の講義内容を基に、その後も――早稲田大学、次いで慶應義塾大学の両法科大学院で、双方向型の授業を行いつつ――反芻し、考え続けてきたところを、それらの授業からも解き放たれ一個の研究者となった今、結論に辿り着けた点のみならず未だ模索中である点も含め、有りのまま反映させてお示しするのが、本連載に外ならない。¶009

B. 本連載の特性

本連載は、上記のようなものであるため、全体として整序されていず、部分部分の記述の多寡・濃淡もかなりバランスを欠くものになると見込まれる。¶010

そのうえ、特に、尚模索中の点など、後続の部分に移ってからも、関連事項を含めて更に詰めて考え、書き進めるうちに、展望が開けることがないとは言えず、また、裁判例や学説の新たな展開があるなどして、掲載済みの部分についても変更・修正が必要となることがあり得ると思われるが、そのときは、随時、ヴァージョンアップさせていただくつもりである。リンクして掲載する【参照文献・法令等略語表】や【別表】等についても、同様である。¶011

また、連載本文または付注では記述し尽くせない事項や外伝的な挿話については、適宜、別稿の【刑事訴訟法余瀝】として纏め、関連の箇所にリンクを貼って参照していただくことを予定している。¶012

いずれも異例・異様かもしれないが、オンライン配信の利点を活かす試みとして理解し、配信済みで既読の回を含め、ヴァージョン更新情報に注意しつつお読み下さるよう、お願いする次第である。¶013

2 本連載の対象

A. 刑事訴訟法の意義

(a)犯罪があると疑われる場合に、その事実の有無・内容を確証し、犯人だと認められる者がいるならば、その者の刑事責任の有無・程度を判定して、刑罰法令を具体的に適用・実現する一連の手続過程を、一般に、「刑事手続」と呼ぶ。¶014

その刑事手続やそれに関連する事柄を規律する主たる法令が、「刑事訴訟法」という名の法律(現行のものは、昭和23年7月10日法律第131号。「刑訴法」ないし「現行刑訴法」と略称)であり、狭義で「刑事訴訟法」とは、この特定の法律を指す。¶015

(b)現行刑訴法は、上位規範である日本国憲法(昭和21年11月3日公布、翌22年5月3日施行。「憲法」ないし「現行憲法」と略称)に加え、別添【参照文献・法令等略語表】の「現行法令等」欄に掲記の法令・裁判所規則等の関連規定に依り補われ、あるいは、それらと連携し、一体として上記の規律作用を営んでいる。広義で「刑事訴訟法」とは、それらの総体ないしそれらに依って構成される法分野を謂う。¶016

もっとも、「刑事訴訟法」という名称の構成要素である「訴訟」という語は、通常の用法では、裁判所への訴えの提起に始まり、審判が行われ――更に、上訴がなされた場合は、上級審での審判を経――て、終結するまでを指すものであることから、その前後の段階(捜査、裁判の執行など)や付随する手続を含めた刑事手続全体を包括することを顕示するために、「刑事手続法」という呼称が用いられることもある。¶017

(c)また、後にも述べるとおり、我が国の刑事立法(殊に刑事手続関係のそれ)は、昭和40年頃(1960年代半ば)から平成8~9年頃(1990年代後半)に至るまで、種々の事情から――「ピラミッドのように沈黙する」とすら言われるほどの――静止状態にあったが、その間、具体的な事件で問題とされるか裁判所が問題として認知した限りにおいてではあるものの、その空隙を埋めるべく、「スフィンクスさながらに奮い起〔った〕」2)引用は、いずれも、松尾浩也「第四版の刊行にあたって」刑訴百選(4)9頁から。のが、判例であった。¶018

英米法系諸国のような判例法国ではない我が国の法制下における立法と判例の適正な役割分担の在り方については、様々な見方があり得る3)筆者自身の見方については、序章第2節1C(2)(d);井上正仁「第五版の刊行にあたって」刑訴百選(5)10頁;同「第七版の刊行にあたって」刑訴百選(7)3頁参照。し、上記時期以降は、刑事手続関係立法も活発化した4)井上「挑む」155頁以下参照。ので、事情は変わってきているが、我が国の刑事手続法において判例が持つ意味は尚大きく、それを抜きに刑事手続法を語ることは不適切ないし不十分である。その意味で、判例も、実質的には、広義の「刑事訴訟法」を構成する要素と言っても良い。¶019

B. 刑事手続の進行プロセスと本連載の対象

(a)現行刑訴法を中心とする広義の「刑事訴訟法」に依り規律される我が国の刑事手続の通常の進行プロセス(略式手続や即決裁判手続などの特例を除く)は、極めてシンプルであり、①捜査、②公訴の提起、③第一審裁判所での公判審理(冒頭手続、証拠調べ、弁論等)と裁判(判決等)の告知、という順で進行し、この裁判に対し当事者に不服がなければ、それが確定し、④その裁判の執行(刑の言渡しがあったときの刑の執行など)がなされて終結する。¶020

その第一審裁判所の裁判に対し当事者に不服がある場合は、⑤控訴等の申立てに依り控訴審裁判所等の手続に移行し、更に、その控訴審裁判所等の裁判に対し上告等が申し立てられたときは、上告審裁判所等の手続に移行する、という形で進行し、原審判決が破棄され原審裁判所に差し戻される事件を含めて、いずれ、最終の裁判所の裁判が確定し、上記④の手続が行われて終結することになる(それ以後も、例外的に、⑥確定後救済手続〔再審や非常上告〕が開始されることがある)。¶021

(b)以上の刑事手続の進行プロセスのうち、本連載では、①~③の手続段階に絞って論述の対象とし、差し当たり今回から十数回は、その第一シリーズとして、①の「捜査」を扱うこととする。¶022

3 現行刑訴法の系譜

我が国における刑事手続(法)の沿革とその背景を成す国内外の法制や社会的・政治的その他の諸事情については、いずれ別稿を起こしたいと考えているが、ここでは差し当たり、本連載での論述とその読解の便に供するため、現行刑訴法に繋がる直系の系譜のみを略述しておく5)以下A~Cの記述については、特に断らない限り、司法省刑事局「𦾔刑法、治罪法及𦾔刑事訴訟法編纂沿革(1)~(4)」法曹會雑誌8巻(1930年)8号109頁以下、9号135頁以下、11号123頁以下、20号141頁以下;垂水克己「明治大正刑事訴訟法史」同上誌18巻4=5号(1940年)1頁以下;小早川欣吾・法制史論(公法・下)1070頁以下;石井良助・文化史208頁以下、401頁以下、488頁以下;團藤・近代的展開1~53頁;小田中・歴史的分析10~33頁、91頁以下;松尾・理論6頁以下、70頁以下、225頁以下、304頁以下;同・講演集117頁以下などを参照した。¶023

A. 治罪法

(a)現行刑訴法の系譜は、明治13(1880)年に公布された我が国初の西欧式刑事手続法典である治罪法(明治13年7月17日太政官布告第37号)に遡る6)これに先駆け、明治5(1872)年に、司法職務定制(明治5年8月3日太政官達)が定められ、全国的な裁判所組織の整備が図られるとともに、検事の職が設けられ、同11(1878)年からは、その検事が公訴権の行使を専管するものとされる(明治11年6月10日司法省丙第4号達)一方、同9(1876)年に、「糺問判事」に依る「糺問」(後の予審に相当。ただし、公訴提起前)の手続が導入された(糺問判事職務仮規則〔明治9年4月24日司法省達第47号〕、司法警察仮規則〔明治9年4月24日司法省達第48号〕)。また、後掲注10)で略述するような旧来の法制として、「凡ソ罪ヲスルハ口供結案ニ依ル」(被告人を有罪とするには本人の自白を必須とする。自白があれば、それで事件を終結させて処断し得る、という謂も含む〔「口供甘結」とも言われた〕。改定律例断獄律318条。「口供書」の実例については、小泉・明治黎明期43頁以下参照)との定めと、その自白獲得のための拷問の制度が存置されていたところ、内外から批判が高まったことから、前者の定めが、同9(1876)年に「凡ソ罪ヲ斷スルハ證ニ依ル」と改められ(明治9年6月10日太政官布告第86号)、更に、「證據ニ依リ罪ヲ斷スルハ専ラ裁判官ノ信認スル所ニア〔る〕」(同年8月28日司法省達第64号)として、自由心証主義が採用されたうえで、拷問の制度も同12(1879)年に廃止された(明治12年10月8日太政官布告第42号)。このように、治罪法制定の前史として、部分的には近代化が図られてきていたのである。横山晃一郎「明治五年後の刑事手続改革と治罪法」法政研究51巻3=4号(1985年)677頁以下参照。¶024

(b)明治初期から新政府の外交上の一大課題となりつつあった不平等条約(いわゆる「安政五カ国条約」を始め、幕末から明治初年にかけて欧米17カ国との間で各個に締結されていた修好通商絛約)の改正――中でも、治外法権撤廃ないし法権回復――に向けての前提条件として、「泰西」(西洋)並の国内法制の整備が緊要であるとの認識が次第に拡がり、当初、西欧の主要法典を和訳して「書き写す」ことに依ってこれを速成的に実現しようとする性急な動きなどもあったものの、やがて——政府・各部局に専門的知見・技術を提供させたり、司法省明法寮(ないし後身の法学校)や東京大学等の教育機関で教育・人材育成に当たらせたりするため——西欧諸国から随時招聘した「御雇外国人」らのうち、法分野ごとに適切な者に原案を起草させ、それを基に、我が国の実情に応じた必要な修正を加えて、各主要法典を編纂する方針となった。¶025

治罪法は、同時に公布された刑法(太政官布告第36号。「旧刑法」と略称)とともに、その先陣を切り、パリ大学から招聘の――旧刑法の原案起草にも当たった――ボアソナード(Gustave Émile Boissonade de Fontarabie)7)1825年~1910年。パリ大学アグレジェ(正教授の代行教授で、正教授への待機ポスト)を務めていたが、日本政府の招聘を受けて明治6(1873)年に来日、明法寮と後身の司法省法学校でフランス法を講じて法曹の育成に当たるとともに、大木喬任司法卿等に種々の助言を行っていた。前掲注6)で触れた拷問の廃止を建白したことでも知られる(ボアソナード答問録46頁以下参照)。旧刑法・治罪法の原案起草と司法省草案の作成作業に携わった後、ボアソナードは、明治28(1895)年まで滞在し、民法の原案起草という膨大かつ困難な作業にも当たり、外交その他政府諸方面の顧問等を務めるとともに、東京法学校(後の法政大学)で法学徒の教育に従事するなど、多大な貢献をした。大久保泰甫・ボワソナアド;池田眞朗・ボアソナードなど参照。が主としてフランスの1808年治罪法(Code d’instruction criminelle de 1808. 「ナポレオン治罪法」と略称)に倣って起草した原案8)Projet du procédure criminelle pour l’Empire du Japon 〔boissonade, commentaireに収録〕。治罪法草案直譯;ボアソナード・治罪法草案註釋(1)~(4・5)参照。その現代日本語訳として、中村義孝(訳)「ボアソナード刑事訴訟法典草案」立命館法学324号(2009年)190頁以下。を基に、起草着手から約3年の歳月を掛け、司法省、太政官、元老院と順を踏んで審査・修正が重ねられた末に成立するに至ったもの9)別稿【刑事訴訟法余瀝1】(リンク予定)参照。で、旧来の武断的性格を色濃く残した糺問的手続10)武家法支配の江戸時代の刑事手続は、領地・藩により――また、対象者の身分等によっても――差異があるうえ、時とともに変遷も見られた(例えば、江戸時代前期の長崎奉行所における刑事手続の実態について、大平・近世日本289頁以下参照)ものの、それが比較的安定した後期には、基本的に、次のような江戸町奉行所所管事件における手順を典型として、概ねこれに類したプロセスを辿って行われていたと言われる(平松・近世刑訴法599~911頁、同・罪と罰52~53、86~90頁、石井良助・刑罰22~27頁、同・町奉行80~94頁、藤井・御仕置41~112頁、井上和夫・諸藩245頁以下など参照)。
即ち、①町奉行所の下級役人である同心が、被害者等からの訴えや届出を受け、あるいは、目明などの手先を使って犯罪を探知すると、(ア)被疑者や引合人(事件関係者)を最寄りの番屋などに呼び出し――あるいは、被疑者については、必要に応じ、これを召捕り、更には何日か留置し――て取り調べ、被疑者の自白が得られれば「口書」(録取書)を作成するなどの「一通」(下吟味)が行われる。(イ)その結果、被疑者の嫌疑が確認されると、仮口書を含む「捕者書上」(一件記録)が作成され、これが奉行所に提出されて吟味方に回されるとともに、必要に応じ被疑者を入牢(未決勾留)させる手続が取られた。
②そのうえで、奉行所において、(ア)白州(法庭)に被疑者や引合人を出頭させ、奉行が出座して「」(冒頭手続)が行われた後、(イ)吟味方与力に依り、専用の吟味場で、捕者書上などを基に、被疑者や引合人を――多くの場合、個別に――訊問するなどの「下役」が行われ、その結果得られた各人の供述を口書に録取するなどした末、(ウ)被疑者が罪を認めれば、「吟味リ之口書」(被疑者の最終的な自白ないし自認を録取し、印形または爪印させた調書で、本人の身上・経歴に始まり、犯行の動機、態様、盗品の処分方法など犯行後の行動等を被疑者自身が述べるという物語方式で記載されるのが通例)を作成する。しかし、この口書が取れない限り、原則として処断し得ないものとされており、そのため、「罪科之證據分明」なのに被疑者が白状しないときは、笞打石抱海老といった「牢問」を――その順に加重して――行うことができ、それでも尚被疑者が罪を認めないときは――罪種・対象者の限定や一定の慎重な手続の下でではあるが――「拷問」()を行うことも許された。(エ)口書が作成されると、実質的な調べを終え、前記の白州に再び事件関係者全員を出頭させ、奉行が、各人の口書を読み上げさせて供述者に内容を確認し、各供述者から確認の捺印を得るか、あるいは、事前に確認の捺印を得た口書を基に各人を訊問して符合を確認するかのいずれかの方法に依り、事実が確定される。
③(ア)次いで、「吟味詰リ之口書」が専担の役人に回付され、それを基に書面審理で、先例に照らして断案(擬律・科刑の原案)が作成され、(イ)その断案を基に――法解釈・適用上の疑義や、死刑などの重刑の科刑については、上位の役職者(老中など)にを出し、その沙汰(指令)を得るという手続を踏んだうえで――刑の決定がなされて、(ウ)それが被疑者に言い渡され、(エ)直ちに執行に移されて、一件落着となった。
そして、明治に入ってからも、実体刑法については、数次に亙り立法的手当(後述の新律綱領や改定律例の編纂・頒布など)が重ねられ、古律に倣う復古的な方向とはいえ、武家法からの革新が図られたのに対し、刑事手続の方は、実質的に見て、大きな変化はなかったと言って良い。
現に、中央では、新律綱領の頒布に半年ほど先立ち、刑部省の刑事法庭での手続を定めた獄庭規則(明治3年5月25日刑部省定)が制定されているが、それを見ても、(ⅰ)先ず、「下糺」において、解部(刑事では罪状を審理・究明して刑名を断じる「判事」の下位に置かれた法官で、主に「問糺」を担当する)が鞠問して、史生(書記官)が聞書(録取書)を作成し、(ⅱ)次に、白州における「吟味」で、判事以上が出席(「大獄難獄」については、最上位のないし次官のが出座)のうえ、2名の史生が聞書をすることを基本としつつ、解部が主要な点を付加・補填するという形で進め、(ⅲ)拷問を行うときは、判事以上が協議して取り計らい、(ⅳ)吟味済となったら、判事の前で、解部が口書を読み上げて、捺印させ、(ⅴ)刑名宣告は、判事が読み聞かせる、という手順で行われるべきものとされており、前述の江戸町奉行所における手続をほぼ踏襲したものであることが分かる。
大多数の事件を取り扱う各府藩縣(廳)――そして、廃藩置県後の府縣――においても、初期は旧幕府・藩の奉行所役人出身者などが実務者の多くを占めていたこともあり、刑事司法は、旧制・旧慣を受け継ぎ、類似の手順で営まれていたのである。小早川欣吾・法制史論(公法・下)1062頁;小泉・明治黎明期など参照。
を廃し、当時の欧州大陸では最も先進的で、他の国々の範ともなっていたナポレオン治罪法流の「近代的刑事訴訟手続(la procédure pénale moderne)」――ドイツ式呼称では「改革された刑事訴訟手続(der reformierte Strafprozeß)」――を導入するものであった(ただし、その主軸の一つであった陪審制は、ボアソナードの原案でも重要な位置を占めていたものの、上記審査・修正過程の最終に近い段階で除かれた11)ボアソナードは、日本でも、陪審制の採用は前掲注10)のような旧来の糺問的刑事手続を革新するための「最モ至大ナル改正(le plus grande innovation)」であり、かつ、欧米諸国との不平等条約を改正し、欧米人も日本の法を犯したときは日本の裁判所で裁判を受けることを欧米諸国に認めさせるのに不可欠な制度だとして、これに関する詳細な規定案を起草した(boissonade, commentaire, p.4 No 5〔ボアソナード註釋(1)6頁〕;治罪法草案直譯86条、89~91条、445条以下;ボアソナード「刑事陪審論の答議」〔下記の井上毅からの質問に対する回答。花井・陪審法案77頁以下所収〕)。そして、それが司法省草案や治罪法草案審査局の審査修正案でも採用されていたのであるが、太政官上程後、左院の「内閣」(参議の会議体)で反対に遭った。上記審査局の委員を務め、更に内閣委員としてその質疑応答に当たった村田保の――信頼するに足るべき書類や、当時の関係者に「親しく探聞採録せるもの」に基づくと編者が言う――伝記に依ると、「井上毅子〔爵〕之が牛耳を執る、此に於て、司法卿山田顕義伯〔爵は、村田〕翁を招き、るに之が修正を以てす」、そこで、「〔村田〕翁清浦奎吾子〔爵〕と共に、之に代ふるに、〔重罪事件を担当する重罪法院と大審院の構成裁判官数を増やすと〕の案を立て、漸く内閣の承認を得」(水産翁傳24~25頁)、その後、元老院の議を経て、成案となったのであった。
その記述に見るように、この転回は、明治5(1872)年に司法省派遣使節団の一員として渡仏して、パリ大学でボアソナードに依る特別講義を受け、更にベルリンで独法も修めて帰国した気鋭の法制官僚で、大久保利通、そしてその死去後は岩倉具視や伊藤博文に重用され、国法全般に亙り理論的指導者・制度考案者となりつつあった井上(内閣大書記官兼内務大書記官などを務めた後、明治13年3月に太政官大書記官に就任、翌月から法制部主事)の、要旨次のような理由に拠る強い反対論の控制に因るところが大きかったとされる(尾佐竹・陪審史146頁以下および159~162頁;三谷・陪審制97~101頁など)。
即ち、①公衆の中から抽選で陪審を選ぶのは「兒戯」(「摴蒲」は中国古代のダイスゲーム)であり、「衆民ノ総代」とするに足りるものかは疑わしいこと、②政治とは異なり、「人ヲ刑スル」ことのように「正理」に依り法に従ってなすべき事柄を「衆論」に依り行うのは不適当であること、③「事」(事実)の判定といえども「法」と「判然之ヲ分ツベキノ物」でないことが多いから、それを法理にい人に任せるのはいこと、④「無知ノ常人」は情に流され易く、フランスにおけるが如く、無罪・減刑等が多くなり、「巨姦網ニ漏ルル」(極悪人が処罰を免れる)弊があること、⑤「陪審ノ利ハ、實益ニ非スシテ、ニ在リ」(「觀美」は《見かけの良さ》)、「衆心ヲカシムル所以ノ具」(民衆を満足させるための手段)に過ぎないから、欧米でもオランダのように不要としている国があり、況して人々が「未タ参政ノ習ニ熟セサル」我が国においてこれを用いなくても「審判ノ」(「平允」は《公平で妥当なこと》)を損なうものではないこと、⑥実際問題として、「人民中ヨリ陪審ヲ選擧スル〔のは〕多事繁雑」かつ「民費ノ増加」を免れないのに、「其効驗成果ハ百ニモ覺束ナ〔く〕」、かえって「苦情ノ種子」となるだけであること、などである(井上毅・備攷〔下3〕44~49丁;同・存稿(2)22~24丁;同「治罪法意見」〔明治12年10月27日付元老院議官・治罪法草案審査局総裁柳原前光宛。井上毅傳(史料1)191頁以下所収〕)。
もっとも、治罪法修正趣意書では、「陪審ハ欧米各國ニ行ハルルモノニシテ其制ノ善美ナルヤヨリ疑ヲ容ル可カラスト雖モ我カ國ニ於テハ開明ノ程度人民ノ貧富ヲ察スルニ未タ陪審ヲ設クルノ時ニ非ス故ニ之ヲ削除セリ」と説明されている(草案86条・治罪法73条修正趣意)。
)。¶025a

即ち、(ア)訴追と裁判の各権限およびその主体を明確に分離して、原則として検察官に依る公訴提起がなければ裁判所は審判できないものとし(弾劾主義。民事原告人の請求により予審が開始されることもあり得たが、後出の明治刑訴法からは、その予審請求を含め訴追は検事の専権とされ、国家訴追・起訴独占主義へと純化されることになる)、(イ)公判に備えた密行的で非対審式の事実糺明手続(予審)を前置しつつ、(ウ)公開・口頭主義で、弁護人の一定範囲での関与も認める対審式の公判と、そこでの自由心証主義に依る証拠調べないし事実認定を中心に置き、(エ)上訴の制度も備える手続としたのである。¶026

(c)もっとも、その範とされたナポレオン治罪法自体、フランス革命期に、旧来のアンシャンレジーム下の糺問手続12)16世紀以降、フランス絶対王政期のアンシャンレジーム下で実施されていた糺問的刑事手続は、300年ほどの間に、様々な変遷があったものの、概略、次のようなものであったとされる。esmein, histoire, pp.221 et seq.; laingui/lebigre, histoire Ⅱ, pp.87 et seq.; 石井三記・法と正義7頁以下など参照。
①刑事事件専担の裁判官である「刑事法官(lieutenant criminel)」が、「国王代訴官(procureur du Roi)」の告発や被害者その他の民事原告人からの訴えに依り、あるいは自ら、犯罪の疑いがあると思料すると、②犯行現場に臨検したり、被害者の状態などにつき医師等から報告を受けたりして調書を作成する。
上記調書や医師等の報告書に依り犯罪の存在(罪体)と管轄が確認されると、次に、③証拠収集のための非公開の「準備審訊手続(instruction préparatoire. 予審)」を開始し、(ア)証人を秘密裏にかつ個別に訊問して、その供述を録取し(information)、(イ)必要に応じ、教会裁判所の布告に依り、各教区のミサで信者達に、当該犯罪について知っていることを証言するよう命じさせる(monitores)などしたうえ、(ウ)被告人(被疑者)が特定されたら、これを拘束するか喚問して、宣誓させたうえで訊問して調書を作成する(interrogatoire)。
そこから、④「確定審訊手続(instruction définitive)」に移行し、これまた全て非公開で、(ア)重要証人を呼び出して、法官の前で再度証言させ、その録取書を読み聞かせ、その証言を維持するか変更がないかを確認(récolement. これに依り、その証言が正規の証拠能力を得るとともに、偽証罪の対象となる)したうえで、(イ)被告人に不利な証言をしている証人と被告人とを対質(confrontation)して、事実調査が終わると、(ウ)刑事法官から一件記録が国王代訴官に引き渡され、国王代訴官が検討のうえ、意見を添えて上記記録を返却すると、(エ)合議裁判体の構成裁判官の中から主任法官(rapporteur)が指名され(慣行で、通常、上記刑事法官がそのまま務めたと言われる)、その主任法官が、一件記録を整理して報告と意見を合議体に提示し、(オ)これを基に、その合議体が、書面審理に依り事実を認定し、(カ)国王代訴官から提出された意見書(求刑など)が朗読された後に、(キ)被告人を出頭させて、最終訊問(体刑求刑事件では、被告人は“sellete”と呼ばれる特別の訊問台に座らされた)を行ったうえで、(ク)処罰か放免かを裁決して言い渡す。それが通常であるが、(ケ)(α)被告人から正当化事由の主張があったため、それを証明する機会を与える、(β)死刑または体刑に当たる罪につき、被告人の自白が得られていないため、後述の「法定証拠主義」のルールに依り、直ちに処罰はできないものの、その嫌疑を裏付ける重大な「徴憑(indice)」(半完全証明)があるので、拷問(question préparatoire.水責や足枷責など、方法は地方により異なった)を実施する、あるいは、(γ)期間を限定し、または限定しないで、調査続行の処分(jugement de plus amplement)とする、という中間決定がなされることもあった。また、(コ)死刑判決を言い渡された被告人につき、付加して、共犯者を明かさせるための拷問(question préalable)が命じられることもあり得た。
概ね以上のようなものであったが、地方により元々の法系が異なることや各地特有の事情などに由来する慣行の違いがあり、また、法官職の国王売官制・世襲制の弊として、あるいは財政的制約等の事情から、運用はかなりに恣意的ないし選好的なものであったとされる。ruff, crime, pp.24 et seq.参照。
を廃して、主としてイギリスの法制に倣って13)改革のモデルとされたのは、フランスの改革論者達において多分に理想化・理念化されたイギリス刑事手続像であり、それは実態とはかなりかけ離れていたことを指摘するものとして、例えば、John H. Langbein, The English Criminal Trial Jury on the Eve of the French Revolution, in schioppa (ed.), trial jury, pp.22-24〔殊に、イギリスにおいて大陪審(起訴陪審)は、18世紀後半には形骸化し、地方有力者達が集って権威を示すだけのアナクロニズム的存在であったとする〕。試みられた急進的な改革に対し、その後の政治的反動や内外の戦乱に伴う社会の混乱、治安の悪化などを背景として見直しないし復旧的な傾向が強まったナポレオン一世の治政下で立案・制定されたものであったことから、上記(ア)の検察官や(イ)の予審など、アンシャンレジーム下の制度を復活させたと見えるところも少なくなかった14)18世紀末のフランス革命期に、前掲注12)で述べた密行主義・書面主義に依る糺問手続を廃し、イギリスの法制に倣い、大衆訴追主義と起訴陪審および判決陪審や、公開・口頭で――弁護人も関与する――対審式の公判などを中核とする「近代的」な手続への大変革が図られた。
しかし、本文で述べたような逆行的な政治的・社会的傾向が強まる中で、殊に両陪審制に対して、起訴陪審が機能せず不訴追となる事件が多く、あるいは判決陪審の信頼性を欠く評決に依り無罪とされる事件が多いことなどを理由に批判が高まったことから、ナポレオン治罪法の制定にあたっては、両陪審制の改廃が大きな争点となった。そして、白熱した議論の応酬の末に、判決陪審の方はかろうじて存置されたものの、起訴陪審は廃止され、これに代えて――名称も仕組みも、前掲注12)で触れた「国王代訴官」と、刑事法官に依る密行の糺問的な「準備審訊手続」の復活と見える――「検察官(procureur imperial)」と密行・非対審式の予審(instruction)が採用されたのであった(判決陪審に対する批判も、それで終息するどころか、その後も続き、1933年に、有罪認定後の量刑は裁判官と陪審員が共同で行うことに改められ、更に1941年には、有罪・無罪の認定も両者の共同で行うこととされた結果、「陪審(jury)」という名称は維持されているものの、実質上、参審制に変質して今日に至っている)。esmein, histoire, pp.393-461; Morris Ploscowe, Developments of Inquisitorial and Accusatorial Elements in French Procedure, 23 J.crim. L & C. 372, at 376-380 (1932); 沢登=沢登・刑訴法史159~162頁など。フランス革命前からナポレオン治罪法制定に至る経緯について詳しくは、Oates, Influence; 石井三記・法と正義22頁以下参照。
ナポレオン治罪法が「𦾔制の糺問手續豫審)と英法を母法とする公開・口頭辯論主義の手續(公判)とを接合したものであることの痕跡は其の編別法に残つてゐる」ことを指摘するものとして、垂水・前掲注5)19頁。
。上記(ウ)の口頭主義にしても、陪審制に依る重罪法院15)重罪法院(陪審制)でも、証人の証言に代えて予審調書が朗読されることもあり、そうしても「口頭主義」の要請に適っていると考えられていたとの指摘もある(Langbein, supra note 13, at 32)。グロース・講義(1)13~14頁〔予審調書の形式や署名押印などの要件が厳格に定められているのは、後日、重罪法院その他の裁判所の公判に召喚した証人が出頭しないときに、陪審等が列席する前でそれらの調書を朗読することに依り審判を決行することがあるからだとする〕参照。以外の軽罪裁判所や違警罪裁判所の公判については貫徹されず、調書類の使用が大幅に認められていた。¶027

そのうえ、旧来の刑事手続の病根の一つと目された「法定証拠主義(le système des preuves légales)」16)フランスに限らず近世の欧州大陸諸国で、ローマ・カノン法の強い影響の下に形成され、実施されていた糺問的刑事手続においては、被告人の罪責を裏付ける事実の認定は、近代化以降のように裁判官に依る証拠の実質的評価に委ねられるのではなく、《各罪が成立するには如何なる事実が認定されなければならないか(主要事実)》や、《証拠や推認の種類ごとの形式要件、および、それぞれの階層的に格付けされた証明力の程度(フランス流に言えば、「完全ないし明白(pleine ou manifeste)」、「半完全(semi-pleine)」、「不完全ないし薄弱(imparfait ou légère)」の3段階)》と、《それらの組合せによる主要事実の認定の定式および証明の程度》などが定まっており、それらが充たされていなければ――たとえ裁判官が有罪の確信を得るに至っていたとしても――有罪とすることはできないが、それらが充たされている以上は――たとえ裁判官が有罪とするには疑いが残ると内心で思っていたとしても――有罪としなければならないものとされていた、と言われる。
これが、一般に「法定証拠主義」と呼ばれるもので、ドイツでは、神聖ローマ帝国のカール五世の下で制定された、いわゆる「カロリーナ刑事法典(Constitution Criminalis Carolina)」(公式名は「カール五世刑事裁判令〔Die peinliche Gerichtsordnung Karls V〕 」)に、それらを採り入れ、あるいは前提にした相当数の規定が置かれていたこと(上口・カロリーナ121頁以下など参照)が我が国でも知られているが、フランスでも、法規にはほとんど明記されていないものの、権威ある法律書の説くところや先例などに則り、裁判実務上の慣行として、大筋において類似した準則が存在し、これに従って、罪状の認定と処断が行われていた(もっとも、その詳細は極めて複雑であり、権威あるとされた法律書などの見解も区々である点が少なくなかったうえ、重刑で処断するのに必要な証明基準が充たされない場合でも軽い刑で処断するとか、他の処分で処置したり、各地方の裁判所ごとの慣行に依り基準自体を適宜緩和して運用したりすることもあった模様である)。hélie, traitéⅠ, pp.418-428; esmein, histoire, pp.183-287; laingui/lebigre, histoire Ⅱ, pp.110-116; R. G. Bloemberg, The Development of the‘Modern’Criminal Law of Evidence in English Law and in France, Germany and the Netherlands :1750-1900, 59 am. J. legal hist. 358, at 368-372 (2019) ;langbein, torture, pp. 6 et seq. and pp.50 et seq.参照。
その準則の中で、最もよく知られているものの一つは、《被告人を有罪とするためには、犯行の直接の2名の一致した証言があることが必要であり、かつそれで十分である》(完全証明)というものであったが、その要件を充たし得る事案は実際上稀であったし、その他のルールも適用が容易でないものが多かった。これに対し、他の法定証拠が完全には揃っていなくても、被告人本人の自白がある場合には、それだけで有罪にはできないものの、嫌疑を裏付ける重大な――あるいは、「半完全」程度の――徴憑が存在すれば、有罪とするに足るものとされていたことから、自白の獲得が重視され、これと表裏を成して、前掲注12)で述べたとおり、拷問を行うことも許されていたのである。stefani/levasseur/bouloc, PP, pp.51-56;垂水・豫審制度56~58頁;岩井昇二「フランスにおける刑事訴追(1)」警察研究35巻12号(1964年)80~81頁;沢登=沢登・刑訴法史104~107頁など参照。
もっとも、それらがフランス革命を機に一挙に変革されたとする図式的な見方は誤りで、それ以前から、上記のように、法定の証明基準が充たされていなくても軽い刑で処断されたり他の処分で処置されたりしていたのは、自由心証主義的な考え方への移行が既に始まっていたことを意味するし、拷問も、18世紀半ば以降、啓蒙思想の影響で――尚ルイ十六世の治政下にあったフランスを含めて――廃止する国が増加しつつあったことを指摘するものとして、langbein, torture, pp.10-12。
を撤廃してイギリス流の自由心証主義が採用されたけれども、そのイギリスで18世紀に入ってから――公判審理への弁護人の積極的関与が次第に広く認められるようになったことを動因として――陪審に依る事実認定を適正に規制すべく裁判上の準則として生成中であった証拠法則(「性格証拠に依る証明の禁止」、「共犯者の証言についての補強法則」、「自白の任意性要件」、そして少し遅れて、「伝聞法則」など)は――尚生成の途次にあり、未だ後日のように明確化されていなかったためか、あるいは、旧来の法定証拠主義に対する極めて強い反発と警戒の故か――採り入れられていなかったし、同様の動因で形成されてきていた当事者(対抗)主義(adversary system)の審理方式17)langbein, origins, pp.3 et seq.; id., supra note 13, at 32-34; 長谷部恭男「当事者対抗型刑事司法の形成について」井上古稀1頁以下;栗原眞人・刑事裁判213頁以下参照。も導入されなかった。むしろ、重罪法院を含め、裁判所(中でも裁判長)に、検察官ないし予審判事から引き継いだ一件記録を基に、自らのイニシアティヴで必要と思われる証人や物証を選別・採用し、それらに対する訊問や証拠調べを主導するなど、真実究明のために有効なあらゆることを行う責務と権限が認められ、それに依って審理が進められる職権主義の手続が採られていたのである18)糺問手続に依っていた欧州大陸諸国では、ナポレオン治罪法を嚆矢とし、他もそれに倣って、イギリス式への刑事手続改革が行われたが、《刑事裁判所が真実を究明する責務を負い、権限を有する》という原則は堅持された結果、それら各国の刑事手続はハイブリッドなものとなったことを指摘するものとして、langbein, origins, pp.342-343。¶028

そして、陪審制を採用しなかった我が治罪法は、そのようなナポレオン治罪法の特性を――重罪事件と軽罪事件・違警罪事件の別なく――より一般化させた形で受け継ぐものであった。¶029

(d)ただ、この治罪法は、明治15(1882)年の1月に施行されたものの、実際には、国家財政の窮乏とその下での裁判所等の整備の遅れや法曹人材の不足、混乱した治安状況などの諸事情から、暫定的に、控訴に関する規定の実施が見送られ19)明治14年12月28日太政官布告第74号。、また、「其擧動犯人ト思料スヘキ者」(擧動犯)への現行犯規定の準用や、その場合を含めた最広義の「現行犯」事件における――治罪法上は検察官に限定されている――令状発付権限の司法警察官への付与20)明治14年9月20日太政官布告第46号。別稿【刑事訴訟法余瀝3:強制処分法定主義規定の沿革】(リンク予定)参照。、違警罪(当時は、旧刑法第4編に定める軽微な罪)の簡便な裁決21)明治14年9月20日太政官布告第44号、同年12月28日太政官布告第80号。等の便法が講じられるなどして、過渡的な状態が当分の間続いた(違警罪の簡便な処置は、明治18〔1885〕年に、正規の訴追・裁判を経ず、所轄警察署長・分署長およびその代理において即決で処分することを許す違警罪即決例〔同年9月24日太政官布告第31号〕が定められたことに依り定常化したうえ、後述の現行刑法〔明治40年4月24日法律第45号〕の施行後は拘留または科料に当たる罪一般が、更にその後、警察犯処罰令〔明治41年9月29日内務省令第16号〕の浮浪罪等多数の微罪が、その対象に含まれるようになって、第二次大戦後の昭和23〔1948〕年に廃止されるまで存続した)。¶030

B. 明治刑訴法

しかも、前記の不平等条約改正に向けての関係各国との交渉が、治罪法の制定・施行前後から本格化し、予備的な交渉を経て、明治19(1886)年5月以降、締約相手国の多くを一堂に集め、回を重ねて開かれた「條約改正會議」において、改正のために各国と締結する新条約では、治外法権撤廃の条件として、日本政府は同条約批准後2年内に、「泰西ノ主義(Western principles)」に従う裁判所章程(constitution of the law courts)を制定することとと——民法、商法、「訴訟法」(後の「民事訴訟法」)など未整備のものを始めとする――主要法典の編制を実施することを約定する方向となる。そこで、逸早くそれに対応すべく、それまで――政府組織の数次の改編などに依り担当機関や方針が変遷し、あるいは進行が断続的になるなどしながら――法分野ごとに個別に行われてきた法典編纂作業をその目標の下に統合して推進するため、新たに「法律取調委員會」(当初は外務省所管、明治20〔1887〕年10月に司法省に移管)が設置され、分野別の会議体編成の下に、上記4法を先行させて集中的な編纂作業が行われることとなった21a) 石井良助・文化史;鈴木正裕・民訴法史118頁以下;小柳=蕪山(編著)・裁判所構成法24頁以下〔蕪山〕;大庭・司法省189頁以下など参照。。その中で、特に裁判所章程については、明治5(1872)年の司法職務定制21b)前掲注6)参照。以降数次の改変や種々の個別的補足・暫定措置などが施されて複雑なものとなっていた裁判所等の組織について、主として当時欧州最新のドイツ1877年裁判所構成法(Gerichtsverfassungsgesetz von 1877)に倣った抜本的な再整備が図られる。そして、明治22(1889)年2月には大日本帝国憲法(「明治憲法」と略称)が発布され、「裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」(57条2項)と規定されたことから、それを実現するためもあって、法案作成が加速され、翌年2月に、ドイツ型の裁判所制度を採用する裁判所構成法(明治23年2月10日法律第6号)が制定されるに至るが、これにあたり、それまで治罪法で定められていた刑事裁判所の組織・管轄等を――民事裁判所のそれとともに――整理・統合して裁判所構成法の方で規律することとなった。¶031

これに応じて、治罪法からそれらの規定を削除して関連規定を修正するとともに、治罪法実施後数年の運用状況に照らして必要とされる若干の修正・補充を行うため、漸く制定の運びとなった――これまたドイツ法系の――民事訴訟法(明治23年4月12日法律第29号)と対称を成すべく新たに「刑事訴訟法」と名付けられた法律(明治23年10月7日法律第96号。「明治刑訴法」と略称。以上の経過と法令名変更の経緯について詳しくは、別稿【刑事訴訟法余瀝1】〔リンク予定〕参照)が制定され、同年11月1日に裁判所構成法と同時に施行されたことに伴い、治罪法は廃止されたのである。¶032

C. 大正刑訴法

(1)大正刑訴法の制定¶033

(a)以後35年余に亙り、我が国の刑事手続は、明治刑訴法に準拠して運用されることになるが、同法の実質は――上記の変更点を除き――治罪法をほぼそのまま引き継ぐものに外ならなかったこともあり、施行後未だ日の浅い明治28(1895)年末頃には早くも、その改正が公的な場(法典調査會)での検討の課題とされるようになっていた(その検討は、その後、法律取調委員會、臨時法制審議會、そして刑事訴訟法改正調査委員會へと引き継がれる)。¶034

そして、殊に明治30年代(1900年前後)以降、我が国の法学界・法曹界一般にドイツの法制や法学の影響が強まりいく状況(明治40〔1907〕年には、ドイツ法の考え方を大幅に採り入れた現行刑法が制定された)の下で、ドイツの1877年帝国刑事訴訟法(Reichsstrafprozeßordnung von 1877)やその改正案およびそれを巡る論議を参考にしつつ、調査・審議と改正案の起草・修正が積み重ねられ22)この間、被告人が年少者であるか心身に障害がある等の事由に由る官選弁護人選任の制度を導入するなどの改正(明治32年3月22日法律第73号)を含め、小規模の改正が4度あり、また、大正2(1913)年には、略式命令制度を採用する刑事略式手続法(同年4月9日法律第20号。その後、大正刑訴法に吸収)が制定された。、大正11(1922)年に至って、第二代目の「刑事訴訟法」(同年5月5日法律第75号。「大正刑訴法」と略称)として結実した23)以上の経過については、大正刑訴法案理由書1~2頁の外、小田中・歴史的分析173頁以下に詳しい。¶035

(b)この大正刑訴法は、形式(編別構成)および内容((ア)「直接〔審理〕主義〔Unmittelbarkeitsgrundsatz〕24)フランス流の「口頭主義(le principe de l’oralité)」がドイツに伝播した後、その――供述証拠は、裁判官が供述者の口頭の供述を直接聴いて心証を取るべきもの、とする――《証拠方法の制限》の側面が「直接性」ないし「直接主義」と呼ばれるようになり(19世紀前半にドイツの一部文献でその語が用いられるようになった当初は、両者は必ずしも明確に区別されていなかった。Vgl. feuerbach, betrachtungenⅠ, SS. 96 et seq. und II, SS. 329 et seq.;mittermaier, mündlichkeit, SS. 245 et seq.; zachariä, gebrechen, SS. 156 et seq.; birkmeyer, strafprozeßrecht, SS. 508 et seq.)、やがて、口頭主義のもう一つの――証拠調べと双方の主張の提示は両当事者も立ち会う公判廷で口頭に依り行うべきもの、とする――《証拠調べないし審理の方式》の側面と区別され、別個の原理として扱われることになったもの(例えば、供述録取書を証拠採用することは、前者との関係では原則許されず、例外としてそれを許す場合も、後者との関係で、公判廷において朗読される形で取り調べられることが求められる)であるが、ドイツでは、その後、この概念は、論者に依り様々に拡大使用され、あるいは細分類されて論じられることが多くなり、「概念論争」の様相すら呈しているように見えるところがある。
これに対し、フランスでは、当初から今日に至るまで、「口頭主義」の概念で両側面を合わせて表現してきており、管見の限りでは、「直接主義」の概念は用いられていない。
」の考え方に依る供述録取書の証拠能力の制限〔後述〕、(イ)予審への弁護人の一定範囲での関与や、公判における証拠調請求権の付与、弁護人において裁判長の許可を得て証人を訊問することを可とするなどの「訴訟當事者」としての被告人〔側〕の地位・権利の拡充等)の両面でドイツ刑訴法に倣うとともに、同法についての改正論議をも踏まえて、(ウ)治罪法以来、重罪事件につき必須とされてきた予審請求を、軽罪事件についてと同様、検事25)治罪法では、各違警罪裁判所には検事が配置されず、所在地の警部が検察官の職務を行うこととされていた(同法51条)ため、捜査や公訴に当たる主体は――その場合の警部を含める意味で――「檢察官」とされていたが、裁判所構成法の制定に依り、違警罪裁判所の後身である区裁判所にも検事が置かれることになったので、明治刑訴法からは、それも「檢事」に改められた。の裁量に委ねることとし、(エ)検事や司法警察官は、「要急事件」(「被疑者定リタル住居ヲ有セサル」場合や「被疑者常習トシテ強盗又ハ窃盗ノ罪ヲ犯シタルモノナル」場合等であって「急速ヲ要〔するとき〕」)について、現行犯の場合と同様の強制処分を行うことができ(大正刑訴法123条、170条、180条、214条)、また、それら以外で予審に付されない事件を含めて、捜査上必要なときは、裁判官に請求して各種の強制処分(いわゆる「裁判上ノ捜査處分」)を行ってもらうことができるものとする(同法255条)など、捜査権を強化した。その一方で、後述のように、いずれも実務の運用上創出され、慣行化されていた、(オ)検事に依る――ドイツ流の起訴法定主義とは正反対の「任意主義26)大正刑訴法案理由書5頁。」ないし「便宜主義27)林・要義総則(上)3頁。」の考え方に立つ――起訴猶予処分(同法279条)や、(カ)検事や司法警察官吏に依る「任意」の「捜査處分」(同法254条1項。その後の実務では、「通常捜査」と呼ばれるようになる28)別稿【刑事訴訟法余瀝3】(リンク予定)参照。)を明文で承認するなど、我が国固有の考えないし必要に由る変更をも施すなど、明治刑訴法をかなりの程度一新するものであった。¶036

(2)大正刑訴法下の刑事手続¶037

(a)(ⅰ)しかし、これに依り治罪法以来受け継がれてきた基本的な職権主義の手続構造が改められたわけではない。形式上は、公判には両当事者の関与の度合が進んだように見えながら、運用実態を見ると、むしろ、手続全体として実体的真実主義・職権主義的傾向が一層強化される結果とすらなったように思われる。¶038