「優生学(eugenics)」とは、ある人口集団の遺伝的質の向上に関する営みの総体を指すものであり、遺伝学や統計学に属する学問的な営みを基盤としつつ、20世紀の諸国における様々な政策プログラムとして実践された。主として人間の再生産=生殖(リプロダクション)の過程に照準するのであるが、これに対する働きかけの対象や形態は様々である。
一方では、遺伝的質の向上につながる生殖を増加させるための手法として、出産に対する免税措置や手当の付与、プロパガンダ等を通じた多産奨励といったものがある。これらは一見すると単なる人口増加政策にみえても、実質的には、優れた階層とみなされる・かつ産み控えを行いやすい中産階級の女性を標的とするかたちで行われうる。あるいは、戦時下における日本の厚生省の「産めよ殖やせよ」政策に随伴したものとして、悪しき遺伝をもたない者との婚姻を促す等の広報・誘導(ナチス・ドイツの配偶者選択十戒に習った「結婚十訓」や、結婚相談所の開設)が行われることもあった。
他方で、望ましくないと考えられる生殖を防止するための方策も様々に追求される。令和6年7月3日の最高裁判決で問題となった不妊手術(断種手術)の制度化および強制は、その典型である。親若しくは胎児自身に欠陥が認められる場合における堕胎の許容・奨励・強制や、避妊の勧奨等を通じた産児調節(birth control)も——局面に応じて、多産奨励という別の優生政策と衝突することになるが——、この系列に含めることができるだろう。このほか、望ましくないとされた属性の人々の一般社会からの隔離、さらには安楽死(ナチス・ドイツの悪名高いT-4作戦)といった方策も、優生学の過酷な実践の歴史の一部をなしている(以上に示されたような2つの方向性の違いを反映して、必ずしも厳密な概念ではないが、積極的優生学/消極的優生学という区別が語られることもある)。
いずれにおいても、目指される目標は遺伝的質の
向上なのであるから、優れた特質/劣った特質に関する価値判断を含んだ基準が要請される。その基準もまた様々でありうるが、実際上は、限定的な卓越した属性を積極的に同定してそれを増加させることはそれほど容易ではないため、「劣った」ものとして顕著に把握可能な性質の増加を抑える(そうした性質を有しない者の増加を促進する)ことが、通常は目指されることになる。そこでは、「コロニー」や「療養所」で隔離された生を送る障害者や病者(日本の場合はとりわけハンセン病患者)と並んで、犯罪者、成績不良ないし非行の認められる青少年、売春従事者、浮浪者など、治安対策を含めた社会の統治のための諸施策で標的となる様々なカテゴリーが——しばしば「精神薄弱者(feeble-minded)」という曖昧な類型によって結びつけられながら——優生学的干渉の対象となった。
概ね以上のように総括されうる優生学の実践は、当然ながら、20世紀以降の世界的な広がりのなかで、国・時代ごとのヴァリエーションをもって展開していったものである。そうしたなかで、旧優生保護法のもとでの優生手術を中心とした日本の優生政策は、いかなる政治的・社会的文脈のもと、どのような具体的内容をもち、またどのように問題化されて、最高裁判決をもたらす裁判闘争が行われたのか。概要の紹介にとどめながらであるが、時系列順に確認していくことにしたい。
<参考文献>優生学一般の歴史に関する基本書といいうるものとして、米本昌平ほか『優生学と人間社会——生命科学の世紀はどこへ向かうのか』(講談社、2000年)、諸外国を含む優生学的実践に関する近年の充実した研究として、豊田真穂編『優生保護法のグローバル史』(人文書院、2024年)がある。このほか有用な外国語文献として、Philippa Levine,
Eugenics: A Very Short Introduction (Oxford University Press, 2 ed., 2017)〔邦訳:斉藤隆央訳『14歳から考えたい 優生学』(すばる舎、2021年)〕, The Oxford Handbook of The History of Eugenics (Alison Bashford Philippa Levine (eds.), Oxford University Press, 2010)。
また、優生保護法制に関する法学者の検討としては、
水林翔「我が国における優生法制の成立とその論理」流経法学19巻2号(2020年)95頁、
大原利夫「旧優生保護法の制定過程に関する法的考察」関東学院法学32巻1=4号(2023年)59頁がある。