本記事の目的と対象
この記事は、日本国憲法施行後、いわゆる55年体制が崩壊するまでの衆議院の解散についての議論状況を、歴史的な流れのなかに位置づけて、個々の解散・総選挙についての基本的なデータとともに整理し、一覧に供することを目的とする。大学の憲法の教室との関係では、教材として利用されてきた戦後の解散の一覧表(たとえば、初宿正典ほか編著『目で見る憲法〔第6版〕』〔有斐閣、2024年〕88頁~90頁)を補うものとして、学習に用立てていただけるのではないか、と思われる(一般的な典拠と略語については、記事本文を参照)。もっと詳しく
本記事の内容の概観
初期の例を除いて通覧すると、Ⓐ解散権の機能に期待が集まった時期とⒷ解散権が主として警戒の対象となった時期があるように思われる。細部を捨象していえば、1950年代後半から1960年代までの時期がⒶに当たるのに対して((b)や⑧の解散がその典型例である)、⑨の解散の後の、1969年の総選挙を1つの区切りとして、1970年代以降はⒷに当たるといえるのではないか(⑭の解散が典型例である)。このような変化が大まかに見られるとすれば、それはなぜ生じたのであろうか。もっと詳しく
① 1948年12月23日不信任決議⇒同日解散(第2次吉田茂内閣)⇒1949年1月23日総選挙
社会党・民主党を通じて発表されたGHQの69条説に基づいて、不信任案可決を受けて、内閣が衆議院を解散。
民自269+民主犬養派33=302(64.8%)もっと詳しく
② 1952年8月28日解散(第3次吉田茂内閣)⇒1952年10月1日総選挙
1952年6月17日の両院法規委員会勧告による地ならしを経て、7条解散が行われる。与党内の反吉田派を出し抜く「抜打ち解散」。
自由単独242(51.9%)
この解散に対しては、7条説の論者からも批判があるほか、政党状況を踏まえた7条説への批判も出された。改進党の苫米地義三は、最高裁を1審かつ終審として衆議院解散の無効確認の訴えを提起したほか(最大判昭和28・4・15民集7巻4号305頁)、歳費の支払を求める訴えも起こした。いわゆる苫米地事件((c)を参照)である。もっと詳しく
③ 1953年3月14日不信任決議⇒同日解散(第4次吉田茂内閣)⇒1953年4月19日総選挙
自由党内で吉田派と鳩山派の対立が激化し、自由党は、吉田自由党と鳩山自由党に分党。1953年2月28日の衆議院予算委員会で議員の質問中に吉田首相が「バカヤロー」といったことが契機となって、不信任案が可決。
政府声明(3月14日)では、野党3派の連合で国会が「政権争奪のみを目的とする深刻なる角逐場」となったことを論難(『百年史』332頁)。報道では、自由党内の内紛によって、前回の総選挙から半年で解散となったことが嘆かわしいとされていた(朝日・読売1953年3月15日)。
吉自単独202(43.3%)
(a)乱闘国会と解散要求
1954年1月、造船疑獄の捜査が始まる。6月、警察法等の審議をめぐる乱闘国会。解散を求める声が高まる。12月、第5次吉田内閣総辞職。鳩山一郎内閣組閣に当たっては、民主党・左右両社会党が1955年3月上旬までに総選挙を行う旨の共同声明。衆議院の解散決議の試みがなされたのも、この時期の特徴である。もっと詳しく
④ 1955年1月24日解散(第1次鳩山一郎内閣)⇒1955年2月27日総選挙
学説上は、政権担当者の基本的性格の改変の事例として正当な解散と評価される。
民主単独185(39.6%)もっと詳しく
⑤ 1958年4月25日解散(第1次岸信介内閣)⇒1958年5月22日総選挙
鳩山の後、石橋湛山を経て、岸信介へと首相が交代。岸と鈴木茂三郎社会党委員長は、不信任案採決直前に解散の旨、話合いをして解散。趣旨弁明と反対討論を経た段階での解散として後に1つの範型となる。
自民単独298(63.8%)
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(b)安保国会と解散要求
1960年5月19日、日米安保条約衆議院強行採決と会期延長。デモが広がる。野党は自然承認前の解散を要求。6月19日、自然承認。23日、岸内閣総辞職を表明。
学説上、後に、重要政策を新たに行う場合の解散として「当然直ちに解散を断行すべきだった」と回顧される。もっと詳しく
苫米地義三が歳費の支払を求めて起こした訴訟について、最高裁は、政府が7条説を採用して②の解散を行い、かつ、内閣の助言と承認が適法に行われたことは明らかであるということから、「裁判所としては、この政府の見解を否定して、本件解散を憲法上無効なものとすることはできない」とし、請求は排斥を免れないとした。いわゆる統治行為論を採用する判決とされるが、タイムラインにおいて整理することで、本判決にも、解散の機能についての同時代の理解が反映されていることが分かる。もっと詳しく
⑥ 1960年10月24日解散(第1次池田勇人内閣)⇒1960年11月20日総選挙
岸から池田勇人へと首相が交代し、解散は既定路線に。新聞紙では、「あまりにも長い予告選挙のため、かえって解散の意義がぼけてしまった」とも評される(読売1960年10月25日)。政府声明(10月24日)では、「過般の日米安保条約の改定をめぐって生じた社会的緊張をすみやかに解消し、清新にして明朗な民主政治を確立することは、国民の圧倒的な要望であ」ったことを尊重した等を述べる(『百年史』360頁~361頁)。報道でも、安保問題が「議会政治の在り方と、暴力の問題」を提起したことを回顧し、各党がいかに反省し、脱皮再建しているかが争点だとする(朝日1960年10月25日)。
自民単独300(64.2%)
(d)深瀬忠一「衆議院の解散」
1962年1月、このテーマについての古典、深瀬忠一「衆議院の解散」宮沢俊義先生還暦記念『日本国憲法体系(4)』(有斐閣)127頁が発表される。解散の原因は、㋔任期満了時期の接近を別にすると、第1に、㋐内閣と衆議院の意思が衝突した場合と、第2に、㋑政権担当者の基本的性格が改変されたためにその政綱の諾否を国民に問うたり、㋒前選挙で国民に承認されていない新しい重要政策を問うたりする場合(㋓選挙法の大改正があった場合も同じ原理に基づく)に限られるとするもの。この著名な整理も、実際に行われた解散を意識しつつ行われており、それとの関係で同時代の政治・社会的条件から自由ではないことに注意を要する。もっと詳しく
⑦ 1963年10月23日解散(第2次池田勇人内閣)⇒1963年11月21日総選挙
会期冒頭から首相も強い決意を示し、野党も早期解散の主張に立っており、事実上の解散国会であった。重要案件の成立をまたないでなされた解散であったことから、「名分・争点なき解散」(芦部信喜「名分・争点なき解散――国の将来を考え、一票の行使を」〔初出:1963年〕同『憲法叢説(3)憲政評論』〔信山社、1995年〕68頁)とも評される。政府声明(10月23日)では、内政・外交についての政府の決意が簡単に述べられる(『百年史』364頁)。新聞紙では、外交・内政の政策と同時に、「多数の横暴」「少数の実力行使」「抜打ち採決」「牛歩戦術」などの党略的な政党の言動を是正できるかどうかがもう1つの争点だとされる(朝日1963年10月24日)。
自民単独294(63.0%)
⑧ 1966年12月27日解散(第1次佐藤栄作内閣)⇒1967年1月29日総選挙
佐藤栄作内閣は、日韓基本条約、ILO87号条約の批准、農地報償法を、野党の抵抗を排除して成立させる。1966年8月以降、大臣や自民党議員の汚職「黒い霧」事件が明るみに。野党は結束して解散を要求。報道では「下から」の解散と呼ばれる。
自民単独280(57.6%)
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⑨ 1969年12月2日解散(第2次佐藤栄作内閣)⇒1969年12月27日総選挙
1968年末から1969年5月までの通常国会は、大学問題等で強行採決が続き、「異常国会」とも称される。政府は、沖縄返還合意、日米安保条約の堅持、教育問題のような国民的課題を掲げて、解散。学説上、後に、重大争点をかかげて国民の選択を問うたものに数えられる。
自民単独300(61.7%)
社会党が大幅に議席を減らし、一党優位体制が確立。本記事は、解散の機能を考えたとき、この解散・総選挙が1つの転機であったのではないか、と考えている。もっと詳しく
⑩ 1972年11月13日解散(第1次田中角栄内閣)⇒1972年12月10日総選挙
政府声明(11月13日)では、外交上は日中国交正常化、内政上は日本列島改造を挙げた上で、この際、「人心を一新して国政に清新の気をみなぎらせるため、国民の審判を仰ぐ」とする(『百年史』412頁)。
野党も選挙を望んでいたため、新聞紙上も「話合い解散」「争点なき選挙」といわれ、解散が軽い意味しか持たなくなっているとされる。政府の説明についても、国民に訴える政策が明らかになる前に臨時国会を手短に切り上げて「もっぱら情緒的人気に訴え」て解散するのだから、建前の説明にすぎないと論難(朝日1972年11月14日)。
自民単独284(57.8%)
(e)初の任期満了総選挙と保利見解
1974年11月、田中角栄首相が辞任表明。1976年2月、ロッキード疑獄が露見。三木武夫内閣の下で、1976年12月5日任期満了総選挙。
自民単独260(50.9%)
1978年、福田赳夫首相は解散を目指すも、総裁予備選挙で敗北。大平正芳内閣へ。1979年3月、保利茂元衆議院議長(福田内閣当時)の「解散権について」という文書についての報道(保利見解)。7条解散が認められるのは、(1)内閣の重要案件が否決されたり審議未了となったりした場合、(2)審議が長期間ストップして国会の機能がマヒした場合、(3)党利党略で不信任案も提出されないまま国政が渋滞を続ける場合、(4)直前の総選挙に新たな争点が生じ、改めて民意を問う必要が生じた場合に限られる、とするもの。その内容とそれに接した学説の反応からは、解散の機能の理解に変化が見られることが窺われる。もっと詳しく
⑪ 1979年9月7日解散(第1次大平正芳内閣)⇒1979年10月7日総選挙
議長が不信任案を議題とする旨を告げたとき、解散の詔書伝達。
自民単独258(50.5%)
自民党の思いもかけぬ敗北。もっと詳しく
⑫ 1980年5月16日不信任決議⇒1980年5月19日解散(第2次大平正芳内閣)⇒1980年6月22日総選挙
野党提出の不信任案の採決に、自民党の福田派・三木派が欠席。大差で可決。初の衆参同日選挙に。選挙中に大平が死去。自民党が大勝。
自民単独287(56.2%)
党内融和の結果として、鈴木善幸内閣成立。1982年11月、中曽根康弘内閣成立。もっと詳しく
⑬ 1983年11月28日解散(第1次中曽根康弘内閣)⇒1983年12月18日総選挙
国会空転を受け、両院議長が野党の求める解散を条件に案件の会期内成立を保証。議長による不信任案議題宣告直後の解散詔書伝達。
自民259+新自ク8=267(52.3%)
この⑬の解散後の総選挙当時の議員定数配分規定の合憲性が争われた最大判昭和60・7・17民集39巻5号1100頁(内藤光博・憲法百選Ⅱ〔第6版〕330頁)で、⑬の解散後の総選挙まで較差是正が行われなかったことは、合理的期間内の是正がなされなかったと評価することができるとして、違憲判断。この点をめぐる解散に対する習律上の制約についても議論された。もっと詳しく
⑭ 1986年6月2日解散(第2次中曽根康弘内閣)⇒1986年7月6日総選挙
1986年5月に公選法改正が成立。6月、政府は臨時国会を召集し解散。衆議院の不信任決議なしで行われる初めての衆参同日選挙。首相に対するプレビシットとしての機能を持つ解散と評される。
自民304+新自ク6=310(60.5%)
その後、1987年11月、竹下登内閣成立。宇野宗佑内閣を経て、1989年8月、海部俊樹内閣成立。もっと詳しく
⑮ 1990年1月24日解散(第1次海部俊樹内閣)⇒1990年2月18日総選挙
前選挙から3年以上経過し、海部内閣は事実上、選挙管理内閣の性格を持った(後藤謙次『ドキュメント 平成政治史(1)』〔岩波書店、2014年〕57頁)。支持率が回復したことから、解散。海部首相は、年頭の会見で、選挙の際に訴えたい争点について、赤字国債に頼らない予算編成と長寿社会へのきめ細かい施策等を挙げた(朝日1990年1月5日)。首相は、施政方針演説と代表質問を準備するも、自民党内でそれらをなしでの解散で調整(朝日1990年1月20日)。「こんどの解散を前にして、国会では首相の施政方針演説も代表質問もなかった。各党は何を訴えて争っているのか、確かめたい気持ちが有権者にとりわけ強いはずである」(朝日1990年1月25日)と評される。
自民単独286(55.9%)
1991年秋、海部首相は政治改革に与野党からの反対が強いことに対して「重大な決意」で事態を打開したいと解散を示唆したが、支持基盤の竹下派がこれに反発。首相は総裁選立候補断念。11月5日、宮澤喜一内閣成立。
⑯ 1993年6月18日不信任決議⇒同日解散(宮澤喜一内閣)⇒1993年7月18日総選挙
1992年から1993年にかけて明るみになった佐川急便事件、皇民党事件、金丸脱税事件で自民党竹下派が分裂。首相が約束した政治改革が先送りされたため、野党提出の不信任案に自民党羽田派ほかが賛成して可決、解散。新聞紙でも、このような内閣の姿勢を論難し、「保革対立」の構図を超えた政界再編に期待(朝日1993年6月19日、読売1993年6月19日)。
社会77+新生60+公明52+日新・さ52+民社19=260(50.9%)
非自民連立内閣(細川護熙内閣)が誕生。1994年、政治改革関連法成立。小選挙区比例代表並立制の導入。