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この点、筆者は次のように整理している27)奥邨④・前掲注22)48頁注23参照。。著作権は表現を保護しアイデアを保護しない(アイデア・表現二分法)が、アイデアと表現とは全く別のものとして存在するのではなく、両者は連続している。すなわち、アイデアが徐々に具体化されて最後には、文字や図形、画像、映像、音などから構成される表現になる。この点は、高度な哲学思想や深い悲しみの感情が表現になる場合も、日常的なちょっとした考えや思いが表現になる場合も変わらない。とすると、アイデア・表現二分法を実践するためには、アイデアと表現の連続のどこかに境界線を引くことになる。そして、第1要件に言う思想または感情とは、抽象的なところから出発して、境界線ギリギリのところのアイデアに至るまでの連続体全てを指していると考えるべきであろう。この点、人間が創作する場合、最初、抽象的なアイデアから出発しても、それを表現にする過程で、必ず、境界線ギリギリのアイデアに至るまでの具体化の段階を経ることになるので、第1要件を満足できる。一方で、簡単なプロンプトを入力しただけで後はAIに表現の生成を任せる場合は、抽象的なアイデアはあっても、それ以降、境界線ギリギリのところに至るまでのアイデアの連続体は存在しないので、第1要件を満足できないのである28)関連して、中山信弘『著作権法〔第4版〕』(有斐閣、2023年)48頁は、第1要件に言う思想または感情とは「著作物の表現対象のことではなく、表現対象を具体的に表現する過程において何らかの思想・感情が移入され、その結果として具体的に表現されたものに現れている思想・感情を意味している」と指摘する。¶047

3 第2要件

第2要件は、表現が創作的なものであることを求める。もっとも、創作的と言っても、芸術的であることや独創的であることまでは必要ではなく、表現を作成する者の個性が発揮されていれば十分であると解されている29)小泉ほか・前掲注25)10頁[横山]参照。30)なお、創作性を表現の選択の幅と捉える立場もある。中山・前掲注28)72頁~79頁参照。。ここに言う、個性とは人格が反映したものにほかならないが、AIには人格が認められない以上、AI自律生成表現には人格の反映たる個性を欠くため創作的であるとは言えず、第2要件を満足できない31)関連して上野・前掲注22)34頁参照。32)創作性を、表現の選択の幅と捉えるとき(前掲注30)参照)、創作性要件は、人格とは無関係になるので、AI自律生成表現が第2要件を満足する場合もあり得る。奥邨①・前掲注22)13頁参照。。一方、AI道具使用表現の場合は、ペンやワープロ、カメラなどのような他の道具を使用して表現を生み出した場合と同様、作者の人格の反映たる個性を発揮する余地があり、第2要件を満足することも可能である。¶048

4 AI自律生成表現とAI道具使用表現の区別

ここまでをまとめると、AI生成表現には、AI自律生成表現とAI道具使用表現の2種類があるところ、前者については、そもそも第1要件および第2要件を満足することができない。よって、AI生成表現が著作物たり得るためには、後者であることが大前提となる。¶049

では、AI自律生成表現とAI道具使用表現は、どのように区別されるのか。¶050

この問題については、「著作権審議会第9小委員会(コンピュータ創作物関係)報告書」33)文化庁『著作権審議会第9小委員会(コンピュータ創作物関係)報告書』(平成5年11月)(以下、報告書)の分析が、しばしば参照される。報告書では、コンピュータが生成した表現について、それが著作物となるためには、「人がコンピュータ・システムを道具として用いて著作物を創作したものと認められる」ことが前提になるとした上で、そのためには①創作意図(「思想感情をコンピュータ・システムを使用してある結果物として表現しようとする創作意図」)、②創作的寄与(「創作過程において、人が具体的な結果物を得るための創作的寄与と認めるに足る行為を行ったこと」)、③創作的表現としての外形性(「結果物が客観的に思想感情の創作的表現と評価されるに足る外形を備えていること」)の3つが必要であるとする。¶051

報告書の「コンピュータ・システム」を「AI」に置き換えれば、その考え方は、AI自律生成表現とAI道具使用表現を区別する際にもそのまま当てはまるだろう。すなわち、AI道具使用表現と言えるためには、前記①から③が必要ということになる。¶052

ここで、①については、報告書自身が「コンピュータ・システムの使用という事実行為から通常推認し得る」とするように、操作者によるAIの使用という事実から推認することが可能だろう。また、③についても、本稿が問題としているのは、人間が創作したのと一見する限り区別がつかないような表現であるから通常問題とならない。つまり、鍵は②の創作的寄与の有無となる。¶053

5 創作的寄与

そもそも、創作的寄与とは何を意味するのだろうか。この点報告書は、個別のケースごとに、どのような行為が創作的寄与に当たるかを挙げるだけで、創作的寄与を一般的な形で説明していない。そこで、報告書が創作的寄与に当たるとした複数の行為に共通する点を筆者なりにくくり出すと、それは、入力から出力、そして表現の完成までの過程のどこか一部分ではなくて、その全体に人間が関与し、一連の過程を全体として統御していることであるように思われる。¶054

では、何故、報告書は、創作的寄与には、全体的関与と統御が必要だと考えたのだろうか。この点、報告書には言及がないので、私見を述べたい。すなわち、人が表現の作成に当たって、著作物の第1要件が求める思想や感情34)先に述べたように、抽象的なところから出発して、アイデアと表現の境界線ギリギリのところのアイデアに至るまでの連続体が、第1要件が求める思想や感情である。、そして第2要件が求める個性を、そこに盛り込むためには、表現の作成過程全体への関与と統御が必要と、報告書は考えたのであろう。より分析的に見れば、表現の作成に際して、思想や感情および個性を表現に盛り込むことが可能と評価できる程度の創作過程への関与こそが創作的寄与であり、著作権法の観点からは、そのような関与がある場合のみ、人が(コンピュータやAIを用いて)表現を作成したと捉えるべきであると整理した上で35)逆に言えば、思想・感情や個性を表現に盛り込むことが可能な程度の関与がない場合、著作権法学的には、コンピュータやAIが自律的に表現を作成したと評価することになり、その場合、作成された表現は、第1要件および・または第2要件を満足しないから非著作物と判断されることになる。、そのような関与を認めるには、表現の作成過程全体への関与と統御が前提となる、と報告書は位置づけたものと考える。¶055

以上のような理解に基づけば、創作的寄与の有無は、著作物性の第1要件と第2要件を満足するか否かの大前提となる36)また、本文のような創作的寄与の理解は、著作権法16条の定める「創作的に寄与」にも当てはまるだろう。同条は、「映画の著作物の著作者は、その映画の著作物において翻案され、又は複製された小説、脚本、音楽その他の著作物の著作者を除き、制作、監督、演出、撮影、美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者とする。」(下線筆者)と定めており、この規定に典型的に当てはまるのは、映画監督であると解されている。映画の制作過程において、個々の表現はスタッフが作成し(例:映像はカメラマンが撮影する)、監督は、指示・選択・編集などを行う。にもかかわらず、監督が「創作的に寄与」しているとされるのは、表現の作成に際して、指示・選択・編集などを通じて、思想・感情および個性を表現に盛り込むことが可能な程度の関与をしていると評価できるからであろう。37)本文のような理解に基づけば、AIを用いない伝統的な表現の作成においても、創作的寄与は存在することになる。ただ、例えば、人間が自ら筆を持って絵を描く場合を考えれば明らかだが、わざわざ創作的寄与の有無を検討するまでもないだけの話である。¶056

6 生成AIの具体的な場面に照らした検討

現状の生成AIを利用して表現を生成する場合によく見られる、(ア)簡単かつ短いプロンプトを入力して表現を生成する場合、(イ)詳細かつ長いプロンプトを入力して表現を生成する場合、(ウ)プロンプト自体の長さや構成要素を複数回試行錯誤して表現を生成する場合、(エ)同じプロンプトを何度も入力して複数の表現を生成し、その中から好みの表現をピックアップする場合、(オ)AIによって生成された表現に人間が加筆・修正を加える場合、の5つのケースについて、創作的寄与が認められるだろうか。¶057

この点、(イ)~(オ)について、創作的寄与を肯定する立場もあるが38)一般社団法人日本ディープラーニング協会『生成AIの利用ガイドライン【簡易解説付】〔第1版〕』(2023年5月公開)6頁。一方、10月公開のバージョン(同〔第1.1版〕)では「『創作的寄与』があるとして著作権が発生するかについては議論が分かれるところです」(7頁)とする。なお、(ア)~(オ)は、同ガイドラインに掲載されていた例に基づいた。一部表現には変更を加えている。、創作的寄与を、表現の作成に際して、思想・感情および個性を表現に盛り込むことが可能な程度の関与と捉える場合は、(ア)~(エ)のいずれについても、それぞれ単体で創作寄与と認めるのは難しいだろう39)AIではなくて人間に委託する場合、(ア)~(エ)のいずれについても、具体的な表現の作成に関して、委託先の人間の自由度が残る限り、委託元は、著作者とされないこととも整合的であろう。40)愛知・前掲注22)132頁~133頁は(イ)(エ)について、創作的寄与が認められる場合があるとする。また、出井・前掲注22)22頁も(イ)について、創作的寄与ありとも評価し得るとする。¶058

では、それぞれ単体ではなくて、(ア)~(オ)までの全部が行われた場合はどうだろうか。すなわち、最初は簡単かつ短いプロンプトを入力して表現を生成し、結果を見ながら、段々プロンプトを詳細で長いものにしていきつつ、各段階で何度も試行錯誤して多数の表現を作成した後に、ようやく意に適うもの1つを選び、最後、そこに手書きで加筆・修正を加える、というような状況である。¶059

この場合、表現の作成過程全体への関与と統御が存在することは確実だろうし、実際的にも、表現の作成に当たって、操作者がその思想・感情および個性を表現に盛り込むことが十分可能な程度の関与を行っていたと評価できるだろう。つまり、創作的寄与を肯定でき、AI道具使用表現と言える。¶060

もっとも、(ア)~(オ)の全てが常に揃わないといけないというわけではない。表現の作成過程全体への関与と統御の存在は、表現の作成に当たって、表現作成者がその思想・感情および個性を表現に盛り込むことを確実にするために求められたにすぎないから、逆に言えば、必ずしも、作成過程全体への関与と統御が存在しなくても、表現作成者がその思想・感情および個性を表現に盛り込むことができる程度の関与があったと評価できるのであれば、創作的寄与を認めてよいのではないかと思われる。¶061

なお、現状のAI生成表現の場合、最終的にどのような表現が出力されるかは、偶然に委ねるところが存在する。ただ、表現作成過程の一部に偶然に委ねる要素が含まれていても、当該過程を全体としてみたときに、表現作成者がその思想・感情および個性を表現に盛り込むことが十分可能な程度の関与があれば、創作的寄与ありと評価してよいはずである。この点、伝統的な芸術の分野である陶芸では、窯変と言って、偶然に委ねる部分も創作活動の一部と受け止められていること──つまりは、創作的寄与ありと評価されていること──も参考になる41)奥邨④・前掲注22)36頁参照。¶062

7 判断対象

なお、念のために付言すると、AI生成表現の著作物性を検討する場合、判断の対象は表現単位である42)奥邨④・前掲注22)32頁および奥邨⑤・前掲注22)37頁参照。。1編の小説、1枚の絵画、1曲の音楽という具合に、作品単位で判断するのではない。そのため、例えば、漫画作品で、絵は全部AI自律生成表現であるが、台詞は全て人間が作成した表現(AI道具使用表現とAIを全く用いずに人間が作成した表現の両方を指す)である場合、絵の部分は著作物性はないが、台詞の部分は(著作物の定義を満足する限り)著作物性があるという具合に、混在することも少なくない。よって、この場合の漫画作品を例えば無断複製すると、なお(台詞の部分の)著作権侵害となる。逆に言うと、作品全体として、著作物でないとされるのは、作品を構成する表現の全部がAI自律生成表現である場合に限られる43)AI自律生成表現が既存の著作物と類似している場合、既存の著作物の著作権侵害となる可能性がある。仮に侵害とされた場合は、AI自律生成表現は既存の著作物の単なる複製物にすぎないことになる──その意味では、この場合のAI自律生成表現は著作物ではある──ので、当該表現を、既存著作物の権利者に無断で利用することは、当該AI自律生成表現の作成者であっても、第三者であっても、著作権侵害にほかならない。¶063

Ⅴ まとめにかえて

最後に、まとめにかえて、ここまで見てきた日米中の考え方を簡単に比較しておきたい。¶064

1 検討の順序

日本法においては、著作物性の検討の後、著作者性の検討が行われる。これは、我が国著作権法が、「著作物を創作する者」を著作者と定めているためであり、この点は、同様の規定構造を有する中国と共通する。¶065

一方、米国の判決や決定は、著作者該当性によって、著作物該当性が判断されるという構造になっている。このような構造となるのは、米国著作権法が、「著作行為に係る創作的作品」を著作物と定義しており、かつ、裁判所が一貫して、人間以外は著作行為をなし得ないと解釈してきたことが背景にある。¶066

もっとも、日本においても中国においても、著作物該当性を検討する際に、人間がAIを道具として表現を作成したか否かを検討する必要がある(日本においては、第1要件「思想または感情の表現であること」および第2要件「創作的な表現であること」の充足性に関連し、中国においては第2要件「独創性」と第4要件「知的創造の成果」の充足性に関連する)ので、日米中のいずれにおいても、AI生成表現の著作物性を考える上で、AI自律生成表現かそれともAI道具使用表現かの区別は、重要な意味を持つと言える。¶067

2 人間の関与の必要性とその程度

理屈だけから言えば、日本も米国も中国も、AI自律生成表現に著作物性を認めないところは共通している。また、人間がAIを道具として表現を生成している場合、AI生成表現であるというだけで著作物性は否定されず、通常どおりの著作物性判断になることも、日米中ともに共通している。¶068

一方で、AI自律生成表現とされるものが限定的なのか、それとも広くなるのか、逆に言えば、できあがった表現とその作成過程への人間の関与が、比較的弱くてもAI道具使用表現と捉えるのか、それとも比較的強い関与がないとそうは捉えられないのかについては、日米中で違いがあることは明らかである。¶069

この点、(少なくとも現時点の)米国が、強い関与を求めていることに異論はないだろう。そして、我が国の報告書が創作的寄与として求める関与のレベルも、それに準ずる程度になりそうである。しかしながら、果たしてそのような強いレベルでなければならないのかは、改めて議論の対象とされるべき部分であろう。¶070

例えば、米国では、AI生成表現を著作物と認めるために人間の強い関与が必要とされることを、写真の著作物性を論じた判決に基づいて説明するが、140年前の、様々な技能を駆使しなければ満足な写真が撮れなかった時代の判決の論理を今に蘇らせることが(いかに判例法の国と言っても)果たして適切なのだろうか。中国の判決が説くように、デジタルカメラやスマートフォンのカメラで、一般人がカジュアルに写真を撮る場合、人間が関与する部分は決して大きくない。それでも、そこに多少なりとも、撮影者の、米国で言えば創作性、中国で言えば独創性と知的入力、日本であれば思想・感情と個性が盛り込まれていれば、その写真は著作物と認められる。この状況は、140年前の判決の論理で果たして説明可能なのだろうか。仮に、それが説明できないとすれば、そのような論理をAI生成表現に当てはめることは妥当なのだろうか。¶071

同様に、米国では、プロンプト入力から生成される表現が予測できないことを、著作物性(米国の場合正確には著作行為性)を肯定できない理由として挙げるが、既に見たように、創作過程を経て結果として著作物に表現されるものが必ずしも予測できない場合は、これまでも多々あったのではないか。140年前の写真の場合は撮影者が準備万端整え、結果を十分に予想できていたかもしれないが、今もそれは同じだろうか。例えば連写した場合など、結果が予測できないことは頻繁にあるのではないか。だとすれば、それを理由にAI生成表現の著作物性を否定するのは適切なのだろうか。¶072

翻って、中国の(春風が優しさを運ぶ事件判決の)立場はどうか。この点、筆者の立場(創作的寄与を、表現の作成過程を全体としてみたときに、思想・感情および個性を表現に盛り込むことができる程度の関与が存在することを意味すると捉える立場)からすれば、同判決の立場(求められる人間の関与の程度を独創性要件や知的入力〔知的創造の成果〕要件との関係で評価する立場)は、紋切り型で処理する米国の立場よりも、ずっと親近感を覚えるものと言える。問題は、基本的な考え方のレベルではなくて、具体的な当てはめのレベルで、同判決が認めた程度の関与で是とすることが果たして妥当なのか否かという点にある。同じく写真の場合を例にとれば、確かに、最終的な表現の状況を完全には予測できないとしても、それでもなお、同判決の場合よりは、もう少し具体的に最終的な写真の状況が予測できているのではないかとの疑問が浮かんでしまうのである。¶073

3 創作の奨励

結局、どの程度のレベルの関与を求めるべきかは、著作権法の目的との関連で、時代に合わせて判断すべきと考える。この点は、春風が優しさを運ぶ事件判決が説くところが(Ⅲ3参照)、一般論としては、賛同できるところである。そして、創作の奨励という著作権法の目的に照らすとき、少なくとも、米国流の強い関与を求めることも、一方で、中国の春風が優しさを運ぶ事件判決のレベルの弱い関与で十分とすることも、いずれも、バランスが良いようには思われず、強いて言えばその「間」にこそ解があるのではないかと、差し当たりは考えている。¶074