事実
Ⅰ
国家公務員(経済産業省職員)であるX(原告・控訴人=被控訴人・上告人)は、生物学的な性別は男性であるが、幼少の頃からこのことに強い違和感を抱き、平成10年頃から女性ホルモンの投与を受けていた。Xは、同11年頃には性同一性障害である旨の医師の診断を受け、同20年頃から女性として私生活を送るようになった。また、Xは、同22年3月頃までには、血液中における男性ホルモンの量が同年代の男性の基準値の下限を大きく下回り、性衝動に基づく性暴力の可能性が低いと判断される旨の医師の診断を受けていた。Xは、健康上の理由から性別適合手術を受けていない。¶001
Ⅱ
Xは、平成21年7月、上司に対し、自らの性同一性障害について伝え、同年10月、経産省の担当職員に対し、女性の服装での勤務や女性トイレの使用等についての要望を伝えた。経産省は、Xの了承を経て開いたXの性同一性障害についての説明会(「本件説明会」)でのやり取りを踏まえ、Xに対し、その執務室がある階の上下の階の女性トイレの使用を認めず、それ以外の階の女性トイレの使用を認める旨の処遇(「本件処遇」)を実施することとした。¶002
Ⅲ
Xは、平成25年12月、人事院に対し、国家公務員法86条に基づき、職場の女性トイレを自由に使用させることを含め、原則として女性職員と同等の処遇を行うこと等を内容とする措置要求をした。人事院は、同27年5月、いずれの要求も認められない旨の判定(「本件判定」。このうちトイレ使用に関する部分を「本件判定部分」という)をした。Xは、Y(国。被告・被控訴人=控訴人、被上告人)を相手に、本件判定の取消し等を求める訴訟を提起した。¶003
Ⅳ
第1審判決(東京地判令和元・12・12労判1223号52頁)は、本件判定のうちトイレ使用に関する部分を裁量権の逸脱・濫用として取り消し、原審判決(東京高判令和3・5・27労判1254号5頁)は、同判定は違法であるとはいえないとして同部分の取消請求を棄却した。これに対し、Xが上告した。¶004
判旨
原判決中トイレ使用に関する部分を破棄。同部分のYの控訴を棄却。Xのその余の上告を棄却。¶005
Ⅰ
「国家公務員法86条の規定による行政措置の要求に対する人事院の判定においては、……その判断は人事院の裁量に委ねられているものと解され」、その裁量権の範囲を逸脱・濫用したと認められる場合に違法となる。¶006
Ⅱ
「本件処遇は、経済産業省において、本件庁舎内のトイレの使用に関し、Xを含む職員の服務環境の適正を確保する見地からの調整を図ろうとしたものである」。¶007
「Xは、性同一性障害である旨の医師の診断を受けているところ、本件処遇の下において、自認する性別と異なる男性用のトイレを使用するか、本件執務階から離れた階の女性トイレ等を使用せざるを得ないのであり、日常的に相応の不利益を受けている」。「Xは、健康上の理由から性別適合手術を受けていないものの、女性ホルモンの投与……を受けるなどしているほか、性衝動に基づく性暴力の可能性は低い旨の医師の診断も受けている。現に、Xが本件説明会の後、女性の服装等で勤務し、本件執務階から2階以上離れた階の女性トイレを使用するようになったことでトラブルが生じたことはない。また、本件説明会においては、Xが本件執務階の女性トイレを使用することについて、担当職員から数名の女性職員が違和感を抱いているように見えたにとどまり、明確に異を唱える職員がいたことはうかがわれない。さらに、本件説明会から本件判定に至るまでの約4年10か月の間に、Xによる……女性トイレの使用につき、特段の配慮をすべき他の職員〔の存在〕についての調査が改めて行われ、本件処遇の見直しが検討されたこともうかがわれない。」¶008
Ⅲ
「以上によれば、遅くとも本件判定時においては、Xが本件庁舎内の女性トイレを自由に使用することについて、トラブルが生ずることは想定し難く、特段の配慮をすべき他の職員の存在が確認されてもいなかったのであり、Xに対し、本件処遇による上記不利益を甘受させるだけの具体的な事情は見当たらなかったというべきである。そうすると、本件判定部分に係る人事院の判断は、本件における具体的な事情を踏まえることなく他の職員に対する配慮を過度に重視し、Xの不利益を不当に軽視するものであって、関係者の公平並びにXを含む職員の能率の発揮及び増進の見地から判断しなかったものとして、著しく妥当性を欠いたものといわざるを得ない。」「したがって、本件判定部分は、裁量権の範囲を逸脱し又はこれを濫用したものとして違法となるというべきである。」¶009
〔本判決には、宇賀克也裁判官、長嶺安政裁判官、渡邉惠理子裁判官、林道晴裁判官、今崎幸彦裁判官の各補足意見がある。〕¶010
解説
Ⅰ
本判決の争点は、戸籍上は男性であるが、性自認は女性であり女性として私生活を送っているトランスジェンダーの国家公務員が、性自認に基づくトイレの使用を制限する処遇を受けそれを維持されていること等に対し、人事院に国公法86条に基づく措置要求をしたところ、要求をいずれも認めないとする人事院の判定がなされたことの適法性にある。その直接の争点はXの措置要求に対する人事院の判定の裁量権の逸脱・濫用の有無にあるが、実質的にはXに対する経済産業省の一連の対応の評価が問われたものといえる(今崎裁判官補足意見参照)。¶011
Ⅱ
性同一性障害をもつ者などLGBTQの労働者の処遇をめぐり、これまで、性自認に基づく服装・容姿の制限(S社(性同一性障害者解雇)事件・東京地決平成14・6・20労判830号13頁〔容姿を制限する服務命令に反する懲戒解雇を無効と判断〕)や化粧の制限(淀川交通(仮処分)事件・大阪地決令和2・7・20労判1236号79頁〔化粧をしての乗務禁止・就労拒否について使用者の帰責性を肯定し賃金仮払いを命令〕)に関する裁判例はあったが、性自認に基づくトイレの使用の制限の当否が裁判上争われた事件は、本件がおそらく初めてである。かつ、本判決は、LGBTQの労働者の処遇に関して最高裁が初めて判断を行ったものであり、先例として重要な意義をもつものといえる。¶012
Ⅲ
本最高裁判決の第1の特徴は、本件第1審判決が「個人がその真に自認する性別に即した社会生活を送ることができること」を重要な保護法益、原審判決が「自らの性自認に基づいた性別で社会生活を送ること」を法律上保護された利益と述べていたのに対し、本判決は、このような一般的な保護法益に言及することなく、「自認する性別と異なる男性用のトイレを使用するか、本件執務階から離れた階の女性トイレ等を使用せざるを得ない」ことにより「日常的に相応の不利益を受けている」というXが被っている具体的な不利益に言及するにとどまっている点にある。その理由は、上告審で審理の対象とされた措置要求に対する人事院の判定の当否(裁量権の逸脱・濫用の有無)の判断のためには、Xの具体的な不利益(および他の職員の利益・利害等との衡量・調整)に言及すれば足りると考えられたことにあると思われる。4名の裁判官の各補足意見の中では、「自らの性自認に基づいて社会生活を送る利益」、「自己の性自認に基づくトイレを他の女性職員と同じ条件で使用する利益」(以上、宇賀裁判官補足意見)、「自認する性別に即して社会生活を送ること〔が重要な利益であること〕」(長嶺裁判官補足意見)、「その真に自認する性別に即した社会生活を送ることができること〔は重要な法益として十分に尊重されるべきこと〕」(渡邉裁判官補足意見。林裁判官も同調)がそれぞれ掲げられており、法廷意見の中でXの具体的な不利益にしか触れられていないことは、「自らの性自認に基づいて社会生活を送る利益」が一般的な保護法益として存在していることを否定する趣旨のものではないと解される。¶013
Ⅳ
本判決の第2の特徴として、当事者や関係者の具体的な情況に基づいた公平な判断を行うこと、および、継続的に調査や検討を行いつつ偏見を払拭するための取組みを行うことの重要性を示したことが挙げられる。¶014
原審判決は、「他の職員が有する性的羞恥心や性的不安などの性的利益」を考慮して本件トイレ使用制限の違法性を否定していた。これに対し、本判決は、①Xは女性ホルモン投与等により性衝動に基づく性暴力の可能性は低いとの診断を受けている、②Xが本件説明会の後、女性の服装等で勤務し他階の女性トイレを使用したことでトラブルは生じていない、③本件説明会で明確に異を唱えた職員がいたことはうかがえない(判旨Ⅱ)という本件にかかる具体的な事情を挙げ、原審判決が根拠として掲げていた他職員の「性的羞恥心」や「性的不安」は、本件では具体的な裏付けとなる事情を欠く感覚的・抽象的なものであったことが示唆されている(渡邉裁判官補足意見参照)。また、同僚の女性職員が抱く「違和感」や「羞恥心」は、研修により相当程度払拭できるものと考えられる(宇賀裁判官補足意見参照)にもかかわらず、④経産省は本件説明会から本件判定までの約4年10か月の間に改めて調査を行い本件処遇の見直しを検討したという事情もうかがえない(判旨Ⅱ)という、当初の決定(平成22年7月)後の改善に向けた取組みの不十分さも指摘している(これらの点は、原審判決に対し、学説が指摘していた点でもある〔竹内(奥野)寿〔原審判批〕ジュリ1562号5頁、石﨑由希子〔原審判批〕ジュリ1569号133頁参照〕)。¶015
このように、最高裁は、LGBTQをめぐる状況が多様である中で、抽象的な思考・感覚による一律の決定ではなく具体的な実情や情況の変化に応じた判断を行うこと、および、偏見を払拭するための継続的な取組みを行っていくことが重要であり、これらの点が、その処遇の当否の判断に影響を与えうることを示したものといえよう。¶016
Ⅴ
本判決は、国家公務員の処遇に関する判断であったが、民間部門の労働者の処遇をめぐる判断(人事権の行使の権利濫用性、不法行為の成否など)にも妥当しうる要素を含むものである(今崎裁判官補足意見、竹内(奥野)・前掲5頁、島田裕子〔原審判批〕法時94巻6号123頁参照)。2023年6月にLGBT理解増進法(「性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律」)が成立・施行された中、民間企業等においても、本判決の論旨を参照しつつ、多様性を尊重しうる職場環境の実現に向けた取組みを進めていくべきであろう。¶017
[水町勇一郎]¶018
労働者側からのコメント
本判決の注目すべき点としては、以下の2点があると考える。¶019
第1に、行政措置要求に対する人事院の判定の違法性(裁量権の逸脱・濫用の有無)を、適切な審査方法で行った点である。この点について、第1審判決は、「考慮すべき事項を考慮しておらず、若しくは考慮した事項の評価が合理性を欠いており、その結果、当該判定が社会観念上著しく妥当を欠く場合」に、裁量権の逸脱・濫用になるとの枠組み(判断過程統制審査)を提示した上で、人事院は考慮すべき事項(Xの法的利益の重要性等)を考慮していないなどとして、裁量権の逸脱・濫用を認めた。これに対し、原判決は、「人事院は、当該行政措置要求の内容が、各府省庁の合目的的裁量に委ねられている事項である場合には、まず各府省庁の判断がその裁量を超え又は濫用するものであるかどうかを判断し、次にそのような各府省庁の判断について、一般国民及び関係者に公平なように、かつ、職員の能率を発揮し、及び増進するという観点から、事案の判定に当たる」との理解を前提に、まず、本件処遇について経産省に裁量権の逸脱・濫用があったか否かを検討し、Xの希望を考慮したこと等から、経産省には裁量権の逸脱・濫用はないと判断し、そこから直ちに人事院の判定についても、裁量権の逸脱・濫用はなかったと結論づけた。しかし、そもそも行政措置要求において、人事院は各府省庁の裁量権の逸脱・濫用(すなわち違法か否か)だけを判断するのではなく、不当か否かも含めて判断し、「一般国民及び関係者に公平なように、且つ、職員の能率を発揮し、及び増進する見地」(国公87条)から判定を行うべきものである。したがって、司法審査においても、各府省庁の裁量権の逸脱・濫用のみを審査するのでは足りず、人事院の判断過程について、要考慮事項不考慮等の有無を丁寧に検討する必要がある。¶020
本判決は、人事院に裁量があることを前提に、裁量権の逸脱・濫用があれば違法になるとだけ述べており(判旨Ⅰ)、行政措置要求制度の趣旨や、裁量権の逸脱・濫用の審査方法については判示していない。しかし、人事院の判定について、「本件における具体的な事情を踏まえることなく他の職員に対する配慮を過度に重視し、Xの不利益を不当に軽視するものであって、……著しく妥当性を欠いたもの」として、裁量権の逸脱・濫用を認めており(判旨Ⅲ)、第1審判決と同様、一般的な判断過程統制審査の方法で裁量権の逸脱・濫用の判断を行ったものと考えられる。本判決は、原判決の行政措置要求制度に対する誤解を解き、かつ、適切な審査方法で裁量権の逸脱・濫用を判断したものとして評価することができる。¶021
第2に、トランスジェンダーであるXが本件処遇によって受ける不利益を正面から受け止め、Xに本件処遇にかかる不利益を甘受させるだけの事情があるか否かを詳細かつ具体的に検討し(判旨Ⅱ)、その結果、「Xに対し、本件処遇による上記のような不利益を甘受させるだけの具体的な事情は見当たらなかった」と適切に判断した点である。原判決が、「経産省がXの要望やXの主治医らの意見、経産省の顧問弁護士の意見等を参考にしつつ、Xの希望を十分考慮した上で結論を導いた」ことや、「他の職員が有する性的羞恥心や性的不安などの性的利益を考慮し、Xを含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を負っていること」等の抽象的な理由を挙げて、簡単に裁量権の逸脱・濫用を否定したのとは対照的な判断である。¶022
もっとも、本判決が、本件処遇によって受けるXの不利益(Xが制約を受ける利益)の具体的内容・性質や、その重大性(当該利益が憲法で保障された利益なのか否か)等について判示しなかったことは、物足りなさを感じる。制約を受ける利益の性質・重大性等は、裁量権の逸脱・濫用の有無(考慮すべき事項を考慮したか否か等)にも影響を及ぼす事柄であるから、最高裁は、この点を明示すべきであったと思われる(私見によれば、個人が性自認に基づいて社会生活を送ることは、憲法13条で保障された重要な法的利益である)。しかし、各裁判官の補足意見を見ると、性自認に基づいて社会生活を送る利益等が重要な法益(切実な利益)であることや、当該利益をできる限り尊重すべきことが述べられており、法廷意見も、当該利益の重大性を前提として、上記のとおりの判断をしたものと理解することができる。¶023
そして、他の職員への配慮も重要であることは言うまでもないが、上述したXの法的利益の重大性に鑑みれば、原判決のような感覚的・抽象的な理由づけでXの不利益を正当化すべきではない。このような観点から、本判決は、本件の具体的な事情を踏まえ、「Xが本件庁舎内の女性トイレを自由に使用することについて、トラブルが生ずることは想定し難く、特段の配慮をすべき他の職員の存在が確認されてもいなかった」として、上記のとおりの結論を導いており(判旨Ⅲ。渡邉惠理子裁判官補足意見は、これを「客観的かつ具体的な利益較量・利害調整」としている)、適切な判断といえる。¶024
なお、本判決は、国家公務員であるXがその処遇(勤務条件)について行った行政措置要求に対する人事院の判定の違法性に関する判断である。しかし、トランスジェンダー職員の利益と、他の職員の利益とを客観的かつ具体的に比較するという本判決の考え方は、今後、トランスジェンダー職員から国や自治体に国家賠償責任が追及される場面(ただし、原審で争われたとおり、国賠法上の違法性をどのように解するかという問題は残る)や、民間の雇用関係において不法行為責任が追及される場面等でも参照されうる。また、本判決は、個別的な事情を踏まえた事例判断であり、当該労働者の性別移行の状況や、当該労働者が利用を求める施設の状況等(個室の有無等)によって、結論は異なりうる。しかし、本判決の考え方からすれば、少なくとも、他の職員の漠然とした抽象的な不安感・羞恥心・違和感等のみで、トランスジェンダーにのみ一方的な不利益を負わせることは認められない。今後、使用者としては、研修等により、他の職員の違和感等を払拭し、その理解を得る努力を行いつつ(宇賀克也裁判官・渡邉惠理子裁判官補足意見参照)、当該労働者の置かれた立場や希望を踏まえて、個別の事案ごとに丁寧に対応していくことが必要であろう。¶025
[岡田俊宏]¶026
使用者側からのコメント
Ⅰ 概観
本判決を一読し、補足意見の多さと長さにまずは圧倒された。補足意見からは、それぞれに、検討過程での様々な衡量状況が窺われ、それは、結論に至った「悩ましさ」を示すかのようであり、LGBTに関する対応の難しさを浮き彫りにしているように感じられる。そのような「悩ましさ」を抱えつつも、本判決は、今の時代に最高裁として発信すべきことは何か、を強く意識した判決であるといえよう。LGBTの適切な処遇に向けた動きが今後一層加速する(加速させていかなければならない)中、本判決の内容および射程を正しく理解しつつ、補足意見も含めて最高裁が発信した方向性を、公私いずれの組織においても今後の労務管理に活かしていくことが求められるであろう。¶027
Ⅱ 本判決の判断に関するポイント
本判決は、まず、Xに対し、執務する階とその上下の階の女性トイレの使用を認めなかった経産省の措置(本件処遇)自体を違法と判断したものではなく、あくまで人事院の判定を違法と判断したものである。¶028
本件については、人事院の判定の取消しを求めた第1事件と本件処遇や上司の発言等に関する経産省の対応について国家賠償を求めた第2事件があるが、最高裁は第1事件のみを審理・判断し、第2事件については控訴審の判断(上司の発言のみを違法と判断)を維持した。人事院の判定を違法とし、経産省による本件処遇を違法と判断しなかった点について、その理由は本判決からは明らかではないが、国家賠償法上の違法性判断について取消訴訟における違法性と異なるものとするいわゆる職務行為基準説に基づけば、人事院の判定を前提にこれに従って本件処遇を継続した経産省については職務上尽くすべき注意義務に違反したとまではいえないという整理も可能と解される。いずれにせよ、本判決は、本件処遇を開始した後、4年以上が経過し、周囲の職員の受け止めを含め状況の変化があったであろう中では、本件処遇の見直しを具体的に検討すべきであった、としたものである。¶029
また、本判決は、Xが、健康上の理由から性別適合手術を受けておらず(ただし、本件処遇決定段階では、Xは性別適合手術を受ける予定である旨表明していた)、本件処遇決定前に、Xがカミングアウトをし、さらに、他の職員に対し性同一性障害について説明する場を設けたこと、そして、その場で、または、その後に、Xが女性トイレを使用することについて明確な拒絶反応を示した女性職員はいなかったこと等の事実関係を前提とするものである。本判決の射程外となるが、本件処遇開始後、性別適合手術を受け、戸籍上の性も変更した場合には、本件処遇の見直しは、より早い時期に行うべきことになるであろうし、他方、Xが他の職員に対して広く性同一性障害を表明することを拒んだ場合には、本件処遇の継続は、なお適法とされた余地もある(Xは、「戸籍上の性別変更をしない限り、異動先の女性職員に性同一性障害者であることをカミングアウトしなければ、異動先で女性用トイレの使用を認めない」とする経産省の対応は違法であると主張したが、控訴審判決は、「Xを含む全職員にとっての適切な職場環境を構築する責任を負っている経産省において、Xの性自認に基づく利益に加え、他の職員が有する性的羞恥心や性的不安などの性的利益も併せて考慮し、検討した結果策定された対応方針案に基づくものである」などとして違法性を認めず、この判断は、上告審において見直されていない。なお、上記でも触れたが、上告審が判断を示した部分は、本件裁判で争われた内容のごく一部であり、全体としてみれば、多くの点において控訴審の判断が維持されていることには留意を要する)。¶030
Ⅲ 今後の労務管理に向けて
本件処遇のようなトイレをめぐる処遇は、特に、周囲の従業員との(時に困難な)利益調整を要するが、本判決が、その利益調整を具体的に行うべき、とした点は、今後の労務管理の中で念頭に置く必要がある。この点に関し、渡邉惠理子裁判官補足意見(林道晴裁判官同調)では、「性的マイノリティに対する誤解や偏見がいまだ払拭することができない現状の下では、両者間の利益衡量・利害調整を、感覚的・抽象的に行うことが許されるべきではなく、客観的かつ具体的な利益衡量・利害調整が必要である」、「女性職員らの守られるべき利益(上告人の利用によって失われる女性職員らの利益)とは何かをまず真摯に検討することが必要であり、また、そのような女性職員らの利益が本当に侵害されるのか、侵害されるおそれがあったのかについて具体的かつ客観的に検討されるべきである」とされている。¶031
ただ、公共のトイレとは異なり、職場内のトイレに関しては、使用者は、そのトイレを利用する他の従業員に対しても直接に職場環境配慮義務を負っており、他の従業員の「受け止め方」を無視することはできない(さらに、同フロアのテナントも利用しているケースでは他社の従業員の「受け止め方」も無視できない)中で、その「受け止め方」自体が抽象的な感覚にとどまることが多く、「客観的かつ具体的な」利益衡量・利害調整は、言うほど容易ではない。LGBTの各属性内においてもそれぞれ異なる配慮が求められるであろうし、自認する性別として社会から認識される程度による取扱いの相違もありうるであろう。結局のところ、LGBTに関しての正しい理解を職場全体として、さらにはより広い範囲において共有し、「なんとなく嫌だ」といった感覚自体を排除していかなければ、個々の場面における利益衡量・利害調整は困難を極めるのみであろうから、使用者としては、LGBTの処遇に関する問題が顕在化しているか否かを問わず、研修等によってLGBTを含む多様性に関する理解を高めていく取組みを恒常的に行うことこそが今後一層重要となるであろう。このような方向性は、先般成立し施行された、いわゆるLGBT理解増進法が事業主に対して課す努力義務(同法6条・10条2項)の履行にも適うものと思われる。¶032
[町田悠生子]¶033