Part Ⅳ ❹ 法の前の神々、神々の前の法

 「苦しんでいる人間、その名で呼ばれる者、迷える子羊。大切なのは、そしてたとえ残りの99人を危険に曝してまで救うべきは、ただそれだけなのだ。キリスト教は、社会秩序の最終的な保証などではまったくなくて、あらゆる強者を打ち砕くことを使命とした、致死的な酵素なのだ。」

(ジャン゠ピエール・デュピュイ〔西谷修ほか訳〕『聖なるものの刻印──科学的合理性はなぜ盲目なのか』〔以文社、2008゠2014年〕190頁。)

 「占有は集団が個人を犠牲にするのを即時に一旦ストップする。しかしそれを皆が見ている公開の場に持ち出して、一旦ストップが一旦ではなくて最終的だとならなければならない。本番の裁判ですね。」

(木庭顕『誰のために法は生まれた』〔朝日出版、2018年〕252頁。)

本連載のために「法の前の神々」を論じよとの要請を承けた。「宗教的権威や超越的価値(を標榜する人)を法によってどのように手なずけるか」、「社会の編成過程において宗教と国家はどのような関係に立ってきたのか」といった問題を扱えとのことであった。本稿は、筆者の手に余るそれらの問題に直接答えるのではなく、関連する議論を参照しながら法学者によるこうした問いかけの暗黙の前提を考察する。