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Ⅰ 序(近代法における過失主義)

過失とは、行為者がある結果の予見が可能であり、かつ結果を回避することが可能であったにも拘わらず予見しなかったあるいは結果回避行動をとらなかった心理状態であると言われてきた。しかし近年では個々の行為者の主観的注意義務から、一般的・客観的な注意義務が想定されるようになり、過失の観念はより客観化されるようになってきた。つまり注意義務とは、業者に関して言えば個々の業者の個別の注意義務ではなく、当業者が通常払うべきレベルのものと捉えられるようになってきた。予見可能性または結果回避可能性がない場合にまで損害賠償責任を負うことになると、予期しえぬところで不測の損害を被る虞があり、安定した活動あるいは営業ができなくなり、近代法の基本である個人や企業の行動の自由と相容れず、結果的に健全な産業の発展にとって障害となる。また侵害の抑止と企業活動の最適化という観点から立証責任の問題としても捉えられるようになっており、例外的に過失を推定する立法例もあるが、それは立証責任の転換に過ぎず、近代法の基本は過失主義であることに変わりはない。ここで言う予見可能性または結果回避可能性がない場合には結果についての責任を負わないのが原則である。可能性がない場合とは、特に業としての実施を対象としている特許法に関して言えば、可能性が全くない場合のみならず、予見するためにビジネス上の常識から見て過大な負担となるような場合も事実上可能性がないと考えるべきである。社会的に見てあるいはビジネスの常識から見て相当な努力をしてもなお予見しえないような場合に過失を認めると、事実上無過失責任を負うことに等しく、経済社会において不可能なことを強いることになり、やはり自由な活動の阻害要因になるからである。つまり無制限に費用と時間をつぎ込んでまでの特許の調査義務を課すことを意味しない。過失責任主義は自由主義の当然の帰結であると言えよう。無過失責任(厳格責任)が規定される場合も出現するようになってきたが、それはあくまでも例外的であり、法で規定されている場合に限られる。¶001