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イエスの舟より上り給ふとき、穢れし霊に憑かれたる人、墓より出でて直ちに遇ふ。この人、墓を住処とす、くさりにてすら今は誰も繋ぎ得ず。彼はしばしば足械あしかせと鏈とにて繋がれたれど、鏈をちぎり、足械をくだきたり、誰も之を制する力なかりしなり。夜も昼も、絶えず墓あるひは山にて叫び、己が身を石にて傷つけゐたり。かれ遙にイエスを見て、走りきたり、御前に平伏し、大声に叫びて言ふ『いと高き神の子イエスよ、我は汝と何の関係あらん、神によりて願ふ、我を苦しめ給ふな』。これはイエス『穢れし霊よ、この人より出で往け』と言ひ給ひしに因るなり。イエスまた『なんぢの名は何か』と問ひ給へば『わが名はレギオン、我ら多きが故なり』と答へ、また己らを此の地の外に逐ひやり給はざらんことを切に求む。(マルコによる福音書、第5章)1)引用は大正改訳の文語体聖書に拠った(したがって本来のタイトルは「マルコ伝福音書」である)。字体を新字に改め、ふりがなを付した。
¶001

美しい薔薇の花の咲き誇る生け垣があり、その脇を通る小道があるとしよう。だがよく見れば花の数が多すぎて、やや美観を損ねている風情もある。もし小道を通る人の誰かが薔薇を一輪折り取って自宅に持ち帰り花瓶に飾ったならば、その人は花の美しさを堪能することができるだろうし、生け垣の美しさもそれほどは損なわれないに違いない。いま仮に120輪薔薇が咲いており、これが100輪まで低下したとしても生け垣の美しさは保たれると仮定しよう。小道を通る人が120人おり、その全員が薔薇の花を折り取って持ち帰る誘惑に駆られるとする。生け垣の美しさを損ねないまま人々の効用を最大化するためには、どのようにすればよいだろうか2)この事例自体は安藤馨がある研究会で用いていたものである。安藤の意図は、この場合に①反転可能性テスト(自分が当該行為をされる側になった場合でも許容できる行為のみが正当である)では一輪折り取るという行為のみで生け垣全体の美しさに変化が生じないことから当該行為が正当化され、全員がそれを実践するために生け垣が丸裸になってしまう一方、②普遍化可能性テスト(その行為を関連する全員が行ったとしても問題が起きないような行為のみが正当化できる)ではそのような帰結から花を折り取る行為が全員について正当化されず、生け垣の美しさという観点からは無意味な余剰である20輪について、かつその範囲でのみ折り取ることも認められないために資源の有効活用に失敗することを示す点にあった(と筆者は理解したが、誤解である可能性を含めてその責は全て筆者に帰する)。なおこれらのテストについて解説・検討しているものとして、例えば参照、瀧川裕英「公共性のテスト―普遍化可能性から公開可能性へ」井上達夫編『公共性の法哲学』(ナカニシヤ出版、2006年)第2章。¶002

問題は、特に功利主義の観点から見た場合、最初のひとりから20人目までを考えたならば、薔薇を一輪折り取って家に持ち帰ることが正当化されるだろうという点にある。前提からその行為によって薔薇の生け垣の美しさは損なわれず、通行人は美しい薔薇の咲き誇る光景を見て心を楽しませることができるであろうし、家に持ち帰った20人はそれぞれの家のなかで花瓶に活けられた薔薇の風情を楽しむことができるからだ。この範囲においては、生け垣の薔薇の花を折って持ち帰るという一見悪そうな行為によって低下する社会的効用は存在しないと考えることができるだろう。他方、21人目からは生け垣の美しさが次第に低下していくことになるので、望ましくない行為だということになるかもしれない。だが道端の生け垣の花を折って持ち帰るという同種の行為について120人の通行人のうち20番目までならばそれが許容され、21番目からは許されないなどというコントロールを実現することは社会的に可能だろうか。あるいは、そのようなコントロールを我々の法システムが実現することはできるのだろうか。¶003

Ⅰ SNSと誹謗中傷

ここで私は、近年急速に社会問題となったSNSなどにおける誹謗中傷問題が同様の性格を持っているのではないかということを議論しようとしている。例えばいま、ある特定の人物が対象となる別の人物Xに対して誹謗中傷を延々と続けているとしよう3)当時におけるネットワーク的コミュニケーション手段であったパソコン通信上の電子掲示板において発生したこのような行為が問題になったのが、ニフティサーブ事件(東京高判平成13・9・5判時1786号80頁)である。。これが名誉毀損や侮辱といった刑事上の犯罪あるいは民事上の違法行為に当たることについて、多くの人は異論を持たないだろう。10人がそれぞれXに対する誹謗中傷発言を行ったが特定の1人の指示によるものであった場合、あるいは10人が揃って共謀していた場合には、それぞれ主犯と幇助犯、あるいは共謀共同正犯としてその全員の行為が問題となることについても合意できるだろう。だが現在SNSで大きな問題になっているのは、このようなタイプの行動ではない。¶004

2020年、女子プロレスラーがテレビ番組出演中の言動などを理由としてSNS上で誹謗中傷を受け、それを苦にして自殺したとされる事例を考えよう。そのような発言に及んだ個々の行為者は、例えば1回とか2回、対象人物に対する誹謗中傷を書き込んだにすぎないだろう。彼らにそのような行動を取らせるきっかけとなった出来事が、あるいは共通にあったのかもしれない(例えばリアリティショーの特定の場面を全員が視聴していたのかもしれない)。だが行為者同士が互いの姿を見ているわけではなく、誹謗中傷発言をしようという事前の謀議も了解もなかったと考えることができる。また、誰かから1度や2度の誹謗を受けることはインターネットで起きがちな事態ではあり、そのことだけで通常人が死を選びたくなるような精神的ダメージを受けるとも考えがたい。したがって発言する側からは、自分の誹謗中傷によって対象者に大きなダメージが生じることはないだろうという、単独の行為者のみを焦点として考えればおそらく正しいだろう予断のもとに行為したのだとも想定することができよう。¶005

しかし、個々の発言がそれほどの被害を対象者に与えることはなく、それ単独であれば十分に耐えられるような攻撃であったとしても、100人・1000人・1万人がそれぞれ個別的かつ連続的に、間断なく攻撃を加えた場合はどうだろうか。しかもSNSのアーキテクチャによっては、例えばTwitterのDM機能やFacebookのメッセンジャーを利用した場合のように、その発言を目にするのは発言者と対象者のみだという状況も考えることができる。この場合、発言者の側では他に同種の行為がどれだけ発生しているのかを認識する機会すらないかもしれない――対象者の側ではそれら全てを一方的に見せられるにもかかわらず。先の例で言えばそれは、小道を通る全ての人が生け垣全体の状況を見ることなく(やや考えづらい事態ではあるが)目の前の薔薇を折り取るかどうかだけを考えたような状況に例えることができるかもしれない。一輪を失わせる程度で全体に大きな影響は生じないだろうと1人ひとりが考えた結果、全てが終わったあとに残されたのは丸裸の生け垣だったというわけだ。個別には小さな行為の集積によって1人の人間の精神が耐え得る限界を超えてしまった場合において、その結果として生じた様々な被害に対しては誰が責任を負っているのだろうか。そのような事態の発生を防ぐためには、どのようなコントロールを想定することができるのだろうか。¶006

Ⅱ 集合行為問題

つまり、ここに示されているのは集合行為問題の一例である。これが法人の行為問題とは異なることに注意してほしい。何らかの形で意思を統一的に形成するプロセスが観念できる場合、現実にはそのプロセスに複数の人間個体が関与していたとしても、その全体を我々はある存在の1つの行為として理解することができる。法人とはそのように、中の人が何人いたとしても単一の主体としての謂である。ビリー・ミリガンの1つの肉体のなかに24の人格が宿っていたというのが仮に事実だったとしても、彼らが相互に連絡なく交代で肉体を支配するのではなく、例えば合議制と多数決によって肉体が従うべき意思を形成していたとすれば、我々はその全体を1つの法的主体として観念することができただろう。法人と個人はまったく異なる存在であるかのように一般的には思われているかもしれないが、その両者に本質的な差異は存在しないと考える点において、存在論に基礎を置く安藤馨と認識論に限定する筆者の見解は(奇妙にも)一致している4)安藤馨=大屋雄裕『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣、2017年)第2テーマ「団体が、そして団体のみが」。。ところがこれに対して、そのような意思形成のプロセスが存在せず、個々に判断して行動している人々の行為を、全体として統制する必要がある場合についても想定することができるだろう。冒頭に挙げた薔薇の生け垣をめぐる問題はその1つだろうし、2022年10月にソウル・梨泰院で発生したような群衆事故(を防止すること)も同様である。¶007

そして集合行為問題について我々が注意しなければならないのは、それが我々の法による統制と非常に相性が悪いということだろう。このような集合行為が問題となる典型例の1つが民族自決権だろうが、それが第3世代の人権の1つとして扱われることがしばしばありつつ法的な扱いの難しい問題であることはよく知られている。すなわち民族とは事実上の集団であるにすぎず、しかもその成員を一定の客観的な条件によって定義することはしばしば困難である。例えば様々な民族が入り乱れ生活の場をともにしながら重なり合って存在していた中央アジアのような社会において、タタール系とソグド系の両親のあいだに生まれた子供はどちらの民族に属することになるのだろうか。民族国家がまだ成立していない状況において、例えば民主政のような国家の意思形成プロセスを用いて民族の意思を確定することはできないだろう。民族自決権とはどのような形でどのような手続により集団の意思を確定しようとすることなのだろうか。その内実は決して明らかではなく、現実には民族を代表すると称する特定集団が活動することを通じてその実現に成功したりしなかったりするものでしかないと言うことも可能だろう。例えばトルコ・イラク・イランの国境部分に広がるクルディスタン地域に広く分布して居住している人々は「クルド人」という実在する民族であり、したがって民族自決権を行使して自らの国家を作る権利を有しているのか、その水準に満たない単なる人間集団にすぎないのかという問題が国際的にも非常にセンシティブなものになっていることを想起しよう。¶008

法とは主権者による一般的な命令のことであると、古典的な法命令説の提唱者であったジョン・オースティンは主張したのであった。拳銃を突き付けて「カネを出せ」と脅迫する強盗のように、相手の顔を見て時と場合により違う規範を命ずる行為は法によるものではないと、我々も直観的には考えるだろう。だとするならば、さきほどのように集団の一部に対してのみ、特殊な規制を課すようなことを法によって実現することは困難ではないだろうか。¶009

Ⅲ 市場という解決

このような問題を解決するための古典的な手段の1つとして想定されてきたのが市場である。市場とは、ある財について一定以上の価値を感じる主体のみがそれを手に入れることができるという結果を、価格の調整によって実現するものにほかならない。例えば冒頭の例でどの20人が薔薇の花を折り取る機会を手に入れるかという問題に対し、市場はオークションによる解決を提案するだろう。その機会にどれだけの対価を払う用意があるかを120人全員に入札してもらい、上位から20番目の価格で、それ以上の価格を提示した20人にチャンスを与えればよいというわけだ。消費者を相手とする商品の場合にはこのような価格決定メカニズムを採用しがたく、均一の価格を設定して販売する必要が一般的にはあるだろう。そこで登場するのが限定版とか特別バージョンといった商品であり、多少のおまけを付けて価格を引き上げることにより、平均的な購入者より商品の価値を高く評価している消費者にはより高い金額を支払わせることができるという価格差別戦略がしばしば採用されることになる。¶010

だが市場が機能するための条件は、取引対象である財が実在していること、あるいは一定の保護手段を通じてだろう。実在する財であればその占有を保護する刑事法によって守ることができるだろう。例えば著作権のような無体財を考えた場合、それは物理的な実在でこそないものの一定の法制度を通じてその保有や利用が保護されることにより、取引可能なものになっていると考えることができる。¶011

だが、では小道の脇の生け垣から薔薇を折り取る権利について、それと同様の仕方で保護することは可能だろうか。物理的には可能、というのは1つの解答だろう。生け垣に管理者を置き、その機会を購入することなく花を折り取ろうとする者がいれば器物損壊などの刑事制裁を発動すべく警察に通報するといった制度が、考えられないところのものではない。だが同時におそらく現実的には維持不能だろうというのがもう1つの解答だろう。その監視に必要となるコストが対象となる機会の取引価格に対して大きすぎ、いわゆる費用倒れに終わると見込むことができる。それは無方式主義のもとで原理的にはあらゆる創作行為――例えば幼稚園における園児たちのお絵かき作品を含む――から発生する著作権が、しかし現実にはそれを保護するために必要となる制度の運用コストに引き合わないために主張されることがなく、したがって法的にその影響が生じることもなく、あたかも一定以上の市場価値を有する創作物を保護する制度であるかのような外見を呈していることと同根の問題である5)ただしそれは人々が経済的な動機に基づいて行動しているならばという仮定のもとでの話であり、例えば自らの人格の表出として、経済的にはコスト倒れになろうがその権利保有について争うような主体が現われた場合、理念的にはあらゆる創作に対して生じ、現実には価値の高いものについてしか機能しないという著作権制度の二面性が危機に瀕することになるとも予測される。我々はここで、電子掲示板に書き込まれたリゾートホテルの情報に対する権利をめぐって相当の訴訟費用を投じて争われた事案(ホテル・ジャンキーズ事件、東京高判平成14・10・29裁判所Web〔平成14年(ネ)第2887号〕)以来の状況を想起すべきだろう。¶012

そして我々は、SNS上で誰かに対して発言する可能性をこのような形で市場化することもおそらく困難だという結論に至るだろう。仮に市場化したとして、その価格はいくらになるのだろうか。ここで我々は、WWW(World Wide Web)がその問題を忘却することによって自らの技術的成功を勝ち得たマイクロペイメント問題に遭遇せざるを得ないように思われる6)マイクロペイメントとは、わずかな金額の支払において決済費用が相対的に高額になることからそのシステム的実現が困難になるという問題である。インターネット上のリンクのような知的貢献に対する報酬の実現もこのマイクロペイメント問題の1つであり、WWWがその問題を捨象して成立している点については、例えば参照、大屋雄裕「所有権の神話―知的財産権の過去と未来?」田村善之=山根崇邦編著『学際的研究の現在と未来〔知財のフロンティア(1)〕』(勁草書房、2021年)第4章、104頁~106頁。。だとすれば、市場を通じて特定の行為をなし得る資格を配分するという解決策にも明るい展望はないだろう7)ニコニコ動画におけるコメント機能のように、特定のプラットフォーム上で実現することは可能かもしれない。その際、同サイトにおいては各コメントの表示時間が(その長短によらず)一定とされているため長文を書き込むと実際には判読不能になってしまうことなどのアーキテクチャ的要因についても考慮する必要があるだろう。¶013

Ⅳ アルゴリズムによるコントロール

1つの可能性として例えば、プラットフォームによるアルゴリズム的な規制は考えられるかもしれない。例えばFacebookは、ある投稿に対して書き込まれたコメントをその重要性や関連性に基づいて評価し、評価の高いものだけを(あるいはそれらを優先して)表示するようなシステムを組み込んでいる。Twitterにおいては、あるユーザーのタイムラインに表示されるのは彼がフォローしているユーザーたちの書き込みであるという原則を標榜しつつ、それ以外のユーザーの発言や人々の注目を集めている発言、さらには内容的に正しいと考えられるニュースや社会的発言を表示させるような操作を人為的に加えていたことが、イーロン・マスクによるTwitter社の経営掌握以降に明らかになってきている。¶014

だとすれば、例えばSNS上で特定の人物に向けて行われる発言についてその内容を自動的に解析し、同趣旨の発言についてはその10分の1だけが対象者に可視化される(10分の9は――たとえメッセージやDMといった形で直接届けることを意図して送られたとしても――相手の目に届かない時点で消去してしまう)ようなシステムを考えてみることは可能なのかもしれない。対象者が目にする範囲だけでなく、一般にその他のユーザーが見ることができるかというレベルでの操作を加えることも――多くの人から非難されている対象には自分も物申したくなるといったようなエスカレーションを防ぐためには――考えられるかもしれない。さらに、発言の道徳的価値に応じてそれが届く(自動的に表示される)範囲を操作するようなアルゴリズムも想定できないわけではないだろう。社会的に有意義な、人々のポジティブな生活態度を鼓舞し悲観論を打ち払うような発言についてはできるだけ多くの人の目に触れるよう――発言者と友達なのか、フォローしているかといった問題を気にすることなく――広く送り届けることが有益であり、逆に社会的に価値の低い発言については発言の可能性それ自体を制限したり奪ったりするのではなく、その発言が届く範囲を自動的に狭めてやればいいのではないだろうか…… もちろん我々はここで、高口康太が紹介する以下のような事例を想起する必要があるだろう。¶015

中国に住む友人にウイグル問題に関する記事をメッセージアプリで送ったところ、いつまでたっても返事が来ない。興味がなかったので無視されたのかと思ったが、念のために記事が届いたか問い合わせてみると、「何も届いていない」との返答だった。(……)ネット掲示板やウェブメディアの記事のコメント欄もそうだ。中国共産党を支持するメッセージばかりが並んでいるので、ともすると中国人はみな熱烈な愛国者なのかと受け止めてしまいがちだが、体制批判のメッセージはひっそりと隠されて目につかなくなっているだけだ。反応がないので誰も自分のメッセージに興味を持たなかったのかと誤解し、次第に体制批判のメッセージを書き込むことすらやめていく。こうした目に見えない思想統制が広がっている。8)高口康太『中国「コロナ封じ」の虚実―デジタル監視は14億人を統制できるか』(中央公論新社、2021年)146頁~147頁。
¶016

ある発言の道徳的な価値が第三者に判断され、それによって一般の人々から見た可視性に差異が設けられるような制度を、我々は歓迎することができるのだろうか。それが一面では、フェイクニュースやインフォデミック、さらには誹謗中傷のような問題ある情報発信に対する有効な対策だというのは事実だろう。だが同時に、中国のケースではそれが国家権力による言論統制と表裏の関係にあることは高口の指摘するとおりだし、日本を含む自由主義国家においてはプラットフォーム事業者によって実装される、民主的正統性を欠いた権力を意味するか、国家との「共犯関係」によって駆動されるものとなるかのいずれかであり、中国より明るい展望は決して存在しないだろう。¶017

Ⅴ 情報と法の未来

さらに言えばそれが、自己決定能力を持つ人格に対する命令という法の基本的意義を失っていることにも注意する必要がある9)法が命令という形式を通じた強制であることにおいて、他者の他者性が論理的には前提され、現実的には作り出されている点について、参照、大屋雄裕「功利主義と法―統治手段の相互関係」若松良樹編『功利主義の逆襲』(ナカニシヤ出版、2017年)231頁~253頁。そのような関係は法の概念にとって本質的ではなく、無益であるという批判について、参照、安藤馨「租税と刑罰の境界史―法の諸モデルとその契機」中里実ほか編『理論・歴史〔現代租税法講座(1)〕』(日本評論社、2017年)321頁~343頁。。命令を受けたには、それに可能性が――意図的にであれ過失によってであれ――存在するだろう。それは一面において法による統治が完全に成功することはあり得ないという帰結を招き(いかに治安のいい日本でも年間数百件の殺人事件は発生してしまう)、だが同時に法の命令を超えた道徳的価値が実現される余地を生み出すものでもある。徴兵令状が人格に対する命令だったからこそ、ベトナム戦争に反対する若者はそれを公衆の面前で焼き捨て、民主政に対して再考を促すことができたのではなかったろうか。市民的不服従が道徳的価値を持ち得ると我々が考えるとき、アルゴリズム的な情報のコントロールはそのような抵抗の可能性をも失わせるように感じられる10)情報技術の高度な活用によってもたらされるSociety 5.0という社会像がの実現を意味しており、そこでは市民的不服従を含む抵抗の可能性が失われるという点については、参照、大屋雄裕「Society 5.0と人格なき統治」情報通信政策研究5巻1号(2021年)I-1頁~I-14頁。。そこに法は存在するのだろうか。情報の取扱いに関する法としての情報法は、そこに観念することができるのだろうか。¶018

「情報法」という、法の世界においては生まれたての赤子のような法領域の将来は、集合行為の統制可能性という問題に答え得るかという点に委ねられているのかもしれない。あるいはそれは、法全体の未来を占う問題になるのかもしれない11)この問題について「法の黄昏」という表現のもとで論じたものとして、参照、大屋雄裕「法の黄昏と法制史の意義」法制史研究70号(2021年)239頁~251頁、および大屋雄裕「戦争と平和と法の黄昏」山元一編『憲法の基礎理論〔講座 立憲主義と憲法学(1)〕』(信山社、2022年)253頁~280頁。。SNSと情報という問題系が示しているのはそのように、我々自身が我々の社会を運営する手段としてなにを選び取るのかという課題なのである。¶019