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イエスの舟より上り給ふとき、穢れし霊に憑かれたる人、墓より出でて直ちに遇ふ。この人、墓を住処とす、鏈にてすら今は誰も繋ぎ得ず。彼はしばしば足械と鏈とにて繋がれたれど、鏈をちぎり、足械をくだきたり、誰も之を制する力なかりしなり。夜も昼も、絶えず墓あるひは山にて叫び、己が身を石にて傷つけゐたり。かれ遙にイエスを見て、走りきたり、御前に平伏し、大声に叫びて言ふ『いと高き神の子イエスよ、我は汝と何の関係あらん、神によりて願ふ、我を苦しめ給ふな』。これはイエス『穢れし霊よ、この人より出で往け』と言ひ給ひしに因るなり。イエスまた『なんぢの名は何か』と問ひ給へば『わが名はレギオン、我ら多きが故なり』と答へ、また己らを此の地の外に逐ひやり給はざらんことを切に求む。(マルコによる福音書、第5章)1)¶001
美しい薔薇の花の咲き誇る生け垣があり、その脇を通る小道があるとしよう。だがよく見れば花の数が多すぎて、やや美観を損ねている風情もある。もし小道を通る人の誰かが薔薇を一輪折り取って自宅に持ち帰り花瓶に飾ったならば、その人は花の美しさを堪能することができるだろうし、生け垣の美しさもそれほどは損なわれないに違いない。いま仮に120輪薔薇が咲いており、これが100輪まで低下したとしても生け垣の美しさは保たれると仮定しよう。小道を通る人が120人おり、その全員が薔薇の花を折り取って持ち帰る誘惑に駆られるとする。生け垣の美しさを損ねないまま人々の効用を最大化するためには、どのようにすればよいだろうか2)。¶002