FONT SIZE
S 文字の大きさを変更できます
M 文字の大きさを変更できます
L 文字の大きさを変更できます

事実の概要

(1)

1952(昭和27)年8月28日、第14回国会召集(8月26日)直後、第三次吉田茂内閣は、衆議院を解散した。本件解散は、衆議院の内閣不信任決議(憲69条)がなく、初めて憲法7条のみを根拠に行われた。本判決の事実認定によると、本件解散に係る内閣の助言と承認の経緯は次の通りである。①8月22日、定例閣議が開かれ、政局の分析、情勢判断、閣僚の意見交換等がなされ、衆議院解散の結論に到達した。②25日、吉田内閣総理大臣が天皇にその旨上奏した。③26日、憲法7条により衆議院を解散する旨の詔書案とこれが発布されたことの衆議院議長宛の伝達案外一件を議題として、持廻り閣議により、書類を作成した。もっとも26日は、4、5名の閣僚の署名を得、残りの閣僚の署名は28日に得て、完備した。④26日夜、内閣官房総務課長は、内閣の使者として当該書類を天皇に呈上し、裁可の後、署名を受け、翌日、御璽を受けた。⑤28日、解散詔書伝達に関して臨時閣議が開催され、全員異議なく可決した。ただし当時の報道等では、吉田とその側近の数名のみが天皇への助言に関与したとされ、抜き打ち解散と言われた。¶001